赤い天使

『赤い天使』 増村保造監督   ☆☆☆☆☆

日本版DVDを購入して鑑賞。名作だという評判は前から知っていたが、かなりハードな内容だというので観るのをためらっていた。前にやはり増村監督+若尾文子の『清作の妻』を観てどっと疲れたので、心身ともに余裕がある時にと思っていたのだが、そろそろ観ておかないと一生観ずに終わるかも知れないと思い、今回の鑑賞に至った。別に今、心身ともに余裕があるわけではない。

さて、本作は1966年発表のモノクロ映画である。『清作の妻』は65年、『華岡青洲の妻』は67年なので、ちょうどこの二作品の中間ということになる。ちなみに私はこの三作を、増村・若尾コンビの恐るべき三部作と呼んでいる。

『清作の妻』と『華岡青洲の妻』は因習渦巻く日本のムラ社会が舞台だったが、これは戦争映画である。舞台は戦場、そしてそこにある病院だ。西さくら(若尾文子)は従軍看護婦として中国大陸に赴き、そこで地獄のような戦場の現実を見る。彼女は看護婦なので、彼女が見るのは戦闘そのものではなく傷病兵たちである。彼らは大ケガをし、手足を失い、激痛に苦しみ、やがてほとんどが死んでいく。その肉体的な無残さ、残酷さとともに、そんな状況下で人間がどこまで醜くなるかというトラウマティックな恐怖も容赦なく描かれる。

戦争というものの残酷さを描いた映画は無数にあるが、そんな中でもこの映画はかなり特徴的だと思う。第一の特徴は、残酷描写の即物性と容赦のなさ。つまり、残酷描写がとりわけ「身も蓋もない」感じがする。監督はまるで人間の体をすぐ壊れる物体のように見ていて、また観客にもそう見せようとしているかのようだ。壊れたら壊れっぷりをそのまま見せる。そうすることで、兵士というのはただの物体であり、そこに人間の尊厳などかけらもないのだと言うかの如く。

もちろん戦争映画には残酷描写がつきものだが、普通は、肉体の棄損よりも登場人物の心理的葛藤や苦悩に注目し、残酷な背景からヒューマニズム(場合によってはヒロイズム)を浮かび上がらせようとする。しかしこの映画はそうではない。ただただブラックで、あっけらかんとしている。ヒューマニズムもヒロイズムもない。傷病兵の手足を切り落とす。切った足をバケツに入れる。痛みで暴れる兵士を皆で押さえつける。白衣は血みどろになる。傷にウジ虫がわく。

苦しみはひたすら即物的だ。そして先輩看護婦は西に言うのである。「患者を人間だと思っちゃダメ」

傷病兵たちはひたすら痛みにもだえ苦しむか、あるいは戦場では何をしてもいいという畜生道に落ちるかだ。ヒロインの西さくらは冒頭すぐ、夜間の巡回中に傷病兵たちからレイプされる。彼らは何度もやっているので完全に手馴れている。そこには何の疚しさもない。そしてまた除隊になって戦場から逃れるために、自分の傷口にわざとウジを涌かせる傷病兵もいる。

DVDの特典に若尾文子のインタビューがあるが、印象的だったのは増村監督がとにかくもっと(俳優たちの身なりや外見を)汚く、もっと血まみれに、と要求していたという話だ。ここまでやるかというぐらい白衣を血まみれにしたという。若尾文子は自身の出演作の中で、この『赤い天使』があまりの残酷さに唯一完成後観ることができなかった映画だと語っている。

特徴の二つ目は、戦争映画でありながら女性を主人公にし、性を前面に押し出したこと。この映画は戦場における性に着目し、その中にかすかな人間性の希望を見出そうとするのである。

川津祐介演じる若い傷病兵は両手を切り落とされ、自慰をすることもできない。彼は西さくらに自分の苦しみを訴え、自分に触って欲しいと頼む。この地獄のような戦場病院の中にあって、彼をもっとも苦しめるのは性の渇きなのである。

なんとか彼を救いたいと思う西は、彼の渇きを癒そうとする。休日に一緒に外出し、自分を好きにしていい、なんでも頼んでいいのよ、と言う。彼は満たされ、幸福だと言う。しかしその直後、彼は自殺する。満たされたからこそ、この先生きていくことが耐えられなくなったのである。西の博愛は手ひどいしっぺ返しをくらったわけだ。

次に西は、医者の岡部(芦田伸介)を愛するようになる。彼は医者として人を救うことができない戦場の仕事に絶望し、モルヒネ中毒となり、同時に不能となっている。西は自分の愛で彼の不能を治すと宣言し、それに成功する。二人は戦場の中で恋人の時間を過ごし、ひと時人間性を回復したかに見える。西は笑顔を見せて「西が勝ちました」と岡部に宣言しさえする。しかしその直後、岡部は戦闘に参加して無残な死体と化す。

戦場のエロスというのは実に奥深いテーマだと思う。常に死と隣り合わせの戦場では、性は平和な日常の中とはまるで違うものになる。私には想像もつかないが、おそらくそれは平和な生活におけるそれとはまったく別の、人間の本質をえぐるような問題、手足を切り落とされる以上に切実な問題なのだ。

若い傷病兵が「お願いだから私に触って下さい」と懇願する時、それをいやらしいとか猥褻だとか呼べる人間がいるだろうか。西はその願いをかなえるのが自分の人間としてのつとめだと考えた。このように極限状態の性を善悪を超越した視線で描いた映画を、私は初めて見た。そしてまた、これほどまでにエロスとタナトスが真正面からせめぎ合う映画も、おそらく初めて見たと思う。

それにしても、若尾文子が言うように当時これほどの残酷描写をやった映画は稀だろう。現代でもチャレンジングなレベルだ。ケガや手足の切断の描写もそうだし、西がレイプされる場面など目をそむけたくなるシーンも多い。モノクロだから観れるが、カラーだったら耐え難いレベルだ。50年以上も前に、よくまあこんな映画を撮ったものだと思う。

増村監督は、人間性が絶対的に蹂躙される戦場というものを描いた。そこにはヒューマニズムも人間の尊厳もない。そこで生きていくには獣になるしかない。どんな不幸も忘れるしかない。患者を人間だと思ってはダメだし、医者の仕事をしようと思ってもいけない。そんな中で、ヒロインの西さくらは人間であり続けようとする。しかし彼女の命がけの努力は、結果的に破綻し続ける運命にある。

案の定、精神的に疲弊する映画だった。が、『赤い天使』がきわめてユニークな戦争映画であることはよく分かった。ちなみにこの映画、フランスでは伝説的名作と呼ばれているらしい。やはりフランス人は、芸術の神髄とはヒューマニズムなどではなく、エロスとタナトスであることをよく知っているのだろう。