ある作家の夕刻 フィッツジェラルド後期作品集

『ある作家の夕刻 フィッツジェラルド後期作品集』 村上春樹・編訳   ☆☆☆☆

久しぶりに村上春樹訳のフィッツジェラルド本が出た、ということで早速購入。今回は「ある作家の夕刻」というタイトル通り、フィッツジェラルドがその「絶頂期」を過ぎ、後期に発表した作品集という趣向である。村上春樹の言葉を借りれば、苦しみながら生み出された作品集ということになる。小説8篇、エッセイ5篇が収録されている。

ところで本書の装丁を眺め、もう和田誠氏の新しいイラストが村上春樹の翻訳本を飾ることもないのかと思うと、レイモンド・カーヴァーフィッツジェラルドを愛読してきた私はなんとも寂しい気持ちになる。謹んで、ご冥福をお祈り致します。

さて、いくつか印象に残った収録作品について触れておきたい。私見では一番出来が良いのは冒頭の「異国の旅人」で、これが本書のいわば目玉商品と言っていいと思う。とてもフィッツジェラルド的な、エレガンスと痛ましさが入り混じった美しい作品である。フィッツジェラルド・ファンにはおなじみの、あの甘美な崩壊と失墜の感覚を心ゆくまで味わえる。

主人公は若いアメリカ人のカップルで、男女ともにとても感じが良い。知的で、社交的で、誰もが羨むようなカップルだ。登場時、二人は明らかに選ばれた人々の特別な光輝に包まれている。

が、それは長くは続かない。幸福だった二人は、次第に不幸になっていく。いつものパターンである。不幸はどこか外から異物としてやってくるのではなく、二人自身の内部から、あるいはその関係性の中から、不可避的な人生のプロセスであるかのように滲み出してくる。

決して過剰ではなく、一貫して抑えた筆致であるけれども、諦念を伴った痛ましさが読者の心の中に爪痕を残す。そしてそれはなかなか消えていかない。フィッツジェラルドらしい佳作で、特にラストが見事だと思う。

「ひとの犯すあやまち」も同種の短篇で、タイトルがすべてを物語っている。売れっ子脚本家と女優の結婚、そしてその崩壊。華やかなショービズの世界で栄華に包まれているかに見えた脚本家は、実は人生の苦痛の中をのたうち回るように生きている。なぜかは分からないが、やがて何もかもがおかしくなっていく。そしてそれを彼らは、どうすることもできない。

他の短篇もどこか似通ったプロットが多い。いずれも才能ある若者が、奇禍や災難によってではなく、いわば宿命的に堕ちていくプロセスを描く。そしてその苦しさと華やかな環境の対比が極端なまでに鮮明であり、そのことが崩壊のやるせなさと甘美さを一層つのらせる。

言うまでもなく、これがフィッツジェラルドの生涯を貫くオブセッションだった。本書にもそれは色濃く反映している。どの短篇からも、フィッツジェラルド文学の香気が漂ってくる。

本書にはまた、ちょっと毛色が違う短篇も収められている。「フィネガンの借金」はその一つで、珍しくコメディである。題材はいつもと同じで金に困っている作家だが、この作家は編集者から借金をしまくり、編集者の方は嫌だ嫌だと思いながらもつい金を貸してしまう。これを編集者側の視点で描く。

借金癖のある作家はフィッツジェラルド自身がモデルらしいが、この作品の中ではただの「困ったちゃん」キャラで、彼の内面や心理はまったく描かれない。主役はそれに振り回される周囲の人々である。げっそりしながら作家につきあうしかない人々の災難が、ポーカーフェイスでコミカルに描かれる。

自分をここまで突き放してコメディを書けるというのは、なかなか凄いことだ。特に、いつも痛ましい短篇を書くフィッツジェラルドがやっていると思うと余計に凄みを感じる。そして何よりも、コメディとしてかなり面白い。

失われた10年」は掌編で、スケッチ的な作品。ストーリーというようなものはなく、ほぼレトリックだけで成立しているが、こういうのを読むとフィッツジェラルドの文体は一種の名人芸だなとあらためて感じ入る。彼のテクニシャンぶり、文章巧者ぶりを示す短篇だ。

「私の失われた都市」は前に村上春樹が訳した「マイ・ロスト・シティー」の改訳である。ニューヨーク、特にマンハッタンを美しく描いた文章の好例で、言うまでもなく、フィッツジェラルドの甘美でキラキラした、しかも倦怠感と陰りを帯びた文章はこの街を描くのにピッタリだ。

ちなみに私は長いことニューヨーク近辺に住んでいるが、ニューヨークという街の魅力を表現した文章を上げろと言われると、実はあまり思いつかない。映画はたくさん思いつくのだが、小説がほとんど出てこない。フィッツジェラルド以外では、カポーティの名作『ティファニーで朝食を』を思い浮かべる程度だ。『幻の女』も有名だが、実はそれほど印象に残っていない。エラリー・クイーンのミステリもまあまあ雰囲気が出ているが、ニューヨークらしさを十分に表現しているとまでは言えない気がする。

もちろんないわけはないので、私が知らないだけである。「ニューヨーカー」系の作家をあまり読まないからかも知れない。もしニューヨーク小説傑作集なんてアンソロジーがあったら、是非読んでみたいものだ。

さて、本書の最後にはエッセイがいくつか収録されているが、その中では村上春樹が大好きという「壊れる」「貼り合わせる」「取り扱い注意」の三篇に注目したい。正直言って、レトリックや構成があまりに自由奔放なため、私にしてみれば言いたいことが掴みにくいエッセイである。なんだか筆者に翻弄されている気になるのだ。

村上春樹はエッセイを書く時これらのフィッツジェラルドの文章を参考にしているというが、本当だろうか。村上春樹のエッセイはいつも丁寧で、ロジックが追いやすく、ニュアンスも分かりやすい。ここに収録されているフィッツジェラルドのエッセイとは、かなり肌合いが異なるように思える。これはやはり私の読み込みが浅いのだろうか。

絶頂期を過ぎた頃の作品集ということで、確かに、いささかこじんまりした印象は否めない。が、全盛期の短篇を大輪の薔薇だとするなら、本書の短篇たちには白百合やカスミ草のようなつつましい美しさがある。しばらく時間をおいて、また読み返してみたいと思う。