データの見えざる手

『データの見えざる手 ウエアラブルセンサが明かす人間・組織・社会の法則』 矢野和男   ☆☆☆☆★

人間の幸福度はセンサーで測れる、という売り文句に興味を惹かれて買ってみた。そんなことが本当に可能なのだろうか、もし可能だとしたらどんな結果が出るのだろうか。

こういう場合にありがちな「読んでみたら当たり前のことしか書いていない」パターンなのでは、という懸念を持ちつつ読んでみると、予想を超える面白さだった。最初の章は、人間の時間の使い方はあらかじめ生理的身体的に決まっていて、私たちがそう思っているように意志の力だけで自由にはならない、という話。いわば前菜部分だ。

これはざっくりいうと、一定の集中力を要する仕事は一日のうち何時間が限界、という閾値があって、それを超えるとどう頑張っても集中力が続かない、ということらしい。これを単なる著者の仮説や考察ではなく、何人もの人間の行動パターンをセンサーで計測し、分析して、科学的に導き出していく。本書の特徴はこんな風にすべてが著者の「考え」「意見」ではなく、データを分析した結果=「ファクト」として呈示されることである。

次に、本題の幸福の話になる。まず、人間の「幸福」(つまり自分を幸福と感じることができる能力)は遺伝が50%、努力や環境が50%というデータがある。努力や環境の50%のうち、「転職する」「結婚する」「引っ越す」などの、普通私たちが自分の幸福度に大きく影響すると思っている「大きな環境の変化」は、実は10%以下の影響しかないという。

じゃあ残りの40%は何かというと、日常生活の中で「積極的に行動すること」によって左右される、そうだ。うーむ、本当だろうか。

つまり著者によれば、どこに住むか、誰と結婚するか、どんな仕事に就くか等は、人の幸福度にとってすごく重要に思えて、実は適応してしまえばどれも大差ない。それよりも、自分が日常の中で積極的に行動しているかどうかの方が、はるかに大きく幸福度を左右するというのだ。これを敷衍すると、どんな環境でもどんなことをやってても、とにかく積極的に主体的に行動するよう努めれば、人間幸福を感じるようになる、ということになる。まあ、分からんでもない。

さて次に、著者はウェアラブル・センサーで計測した「幸福」と身体の関係性を紹介する。いわく、幸福を感じている時には身体活動(身振り手振り、身体の振動等)が活発になり、逆に身体活動を活発にすることによって幸福感は増す。

ここでコールセンタの事例が紹介される。電話をかけて契約をとるコールセンタの成約率に何が影響しているのかを調べたところ、最初予想したようにスタッフの経験値やスキルはまったく関係がなかった。スタッフにウェアラブル・センサーを付けて計測したところ、なんと、成約率は「休憩時間のスタッフの会話の活発さ」と比例していることが分かる。

実に意外な結果だが、しかし、これだけで因果関係があると決めつけることはできない。検証するため、バラバラだった皆の休憩時間を合わせてみた。すると会話の活発さが増し、それに伴って成約率も増加した。同じ実験がアメリカでも行われたが、結論は同じだった。

著者はこれらのデータを踏まえ、従来「職場の活発さ」と曖昧な言われ方をしていたことが、科学的に根拠のあることだと実証されたと述べている。そしてもう一つ大事なのは、ITの進歩で「自分のオフィスから動かずに仕事できること」がすなわち効率化だとずっと言われてきたが、身体活動の活発化の観点からは、むしろ歩き回ったり会議室に集まってワイワイ話したりする方が良い、ということがありうる。従って、ワークスタイルを再考する必要がある、省力化ばかり進めるのは間違いかも知れない、と指摘している。自分の身体感覚からいっても、これはなんとなく納得できる。

次の章では、「運の良さ」のデータ分析が行われる。いやいや、それはいくらなんでも無茶だろうと思われるだろうが、ここでいう「運の良さ」とはリソース力のことだ。つまり、困った時に解決策を持っている人、助けてくれる人をどれほど知っているか、というソーシャルグラフの広がりのことである。

なかなか面白いと思ったのは、組織内のソーシャルグラフを作ってみると、組織内の情報伝達の回路が分かる。そしてそれは大抵の場合、組織図やオフィシャルな指揮系統とは一致しない。組織内の本当のキーパーソンが誰かが分かるのである。すると必然的に、誰とつながると組織の生産性がアップするかが分かる。

その他、ソーシャルグラフにおいて三角形のパターン(三点がトライアングルで相互に繋がっている)が多い組織が生産性が高い、組織内のネットワークを強化すると実際に生産性が増加する、といったが事例が出て来る。このあたりは、チームや部門を率いるリーダーにとってはとても参考になるだろう。

後半では、AIでビッグデータ処理をさせ、ある店舗の売上を増やした話が出て来る。これがまた面白い。比較するため、人間のコンサルタントとAIの両方に同じデータを与え、分析と提言をさせた。その結果、人間のコンサルの提言はまったく役に立たなかった。一方、AIの提言通りにしてみると明確に売り上げが上がったという。人間にとっては残念な結果である。

で、この時のAIの提言とは、店舗のある特定地点に人(スタッフ)を置く、ということだったそうである。理由は分からない。その地点は別に特別な場所でもなく、店舗やオペレーションの中心点でもない。だからこの提言は、人間には絶対に思いつくことができない。しかし試しにそこに人を置いてみると、あら不思議、売上が上昇したというのだ。

これを踏まえて、著者はこう言っている。ビッグデータ分析をする場合は、それを踏まえた提言までAIにやらせなくてはいけない。分析までAIがやり、それを踏まえた仮説づくりを人間がやっていたのでは、結局人間の思考から抜け出せない。つまり、上記例のような思いがけない提言は出てこないことになる。

最後に著者は、AIが人間に取って代わるという昨今の悲観論に対して見解を述べている。著者によれば、AIにできないことが三つある。問題を作ること、データがない時に判断すること、対応結果に責任を取ること。この三つは、人間にしかできない。だから人間がAIに取って代わられると心配する必要はない。が、今AIができることをやっている人は、そうでない仕事へとシフトしなければならない。

さて、本書の内容をざっくりと、駆け足で、ラフに紹介したが、大体のイメージはつかんでいただけただろうか。本書の中ではもちろんはるかに精緻で詳細な考察、解説がなされている。前述した通り、特徴はすべてデータと実験の裏付けがあることだけ書かれている点にある。持論や経験則や信念ではない。私にはとても面白かった。

時間の使い方の制約、「幸福」を左右するもの、組織の生産性を左右するものとどれも面白かったが、更に興味深かったのは、私たちが今経験的に「こうだ」と思い込んでいることの多く(たとえば幸福や、組織の生産性や、チームワーク)は実は間違っていて、これからテクノロジーの進歩によってそうした「常識」の数々がひとつひとつ覆されていくのではないか、ということである。だとすれば、それはどれほど驚きに満ちた発見になるだろうか。

そうしたことを考える意味でも、本書はとても刺激的な一冊だった。