表象詩人

『表象詩人』 松本清張   ☆☆☆

これも中篇二つの松本清張本である。「山の骨」と「表象詩人」が収録されている。どちらもミステリとしてはかなり変化球で、渋くて地味な作品だ。本書は筋金入りの松本清張マニア向け、と言っていいと思う。

まず「山の骨」は、モームの掌編集『コスモポリタン』を引き合いに出しながら、掌編は難しい、特にミステリは短篇でもある程度の枚数がないと難しい、というエッセー風の文章からゆるく始まっていく。そして二つの白骨死体が登場する。

この二つは関連があるのだが、もちろん最初はそんなことは何も分からない。雲をつかむようなこの事件が、地道で綿密な警察の調査によってだんだん形が見えてくる、その過程を客観的にレポートするのが本篇である。

特に個性的な刑事が出て来るわけでもなく、警察という無個性な組織が捜査の主体であるところは「生けるパスカル」と同じ。主役は捜査側でなく事件を起こした側ということだろうが、事件を起こした側も別に派手なところはなく、平凡な庶民の事情が、社会派ミステリらしい生活感とともに淡々と描かれていく。

特定の主人公がいるわけでもなく、まるで調書に少し肉づけした事件のルポのような体裁である。だからストーリーも雰囲気も地味だ。読後印象に残るのは、警察のとにかく辛抱強く、疑い深い捜査である。

次の「表象詩人」も、ミステリとしては相当な変わり種だ。松持清張の文学青年時代がベースになっているらしい。

始まってしばらく、というかこの作品の大部分は全然ミステリらしくなく、文学青年たちの交流と不倫関係の描写で占められている。語り手含む文学青年三人が、裕福な先輩の家に入り浸って文学談義を戦わせる。先輩には東京から来た若い妻がいて、彼らのマドンナ的存在になる。語り手以外の二人は対照的なキャラで、お互い張り合って詩を作ったり、哲学談義をする。

とにかく詩や哲学の話が多い。二人が作った詩が披露され、お互いが批判し合ったりする。それが単に話の装飾ではなく、北原白秋の真似だとか誰の剽窃だとか、実はこれこれがネタ本だったとか、かなり力が入っている。いわば「文学青年の戦い」小説だ。全然ミステリらしくない。しかもかなり古い時代の文学青年談義なので、今これを読んで興奮する人はあまりいないだろう。

やがて先輩の妻が絡み、だんだん不倫の恋愛色が強くなってくる。語り手の「わたし」は疑念を持ち、先輩の家へ行きにくくなる。そして祭りの夜、唐突に殺人が起きる。

死んだのは先輩の妻である。「わたし」はある直感を得るが、事件は迷宮入りになる。数十年たって「わたし」は旧友と再会し、懐旧談の中で意外な推理が披露される。が、はっきりと真相が明示されることがないまま、この中篇は終わっていく。

「わたし」が謎解きする推理部分は長くはないが、ある盲点を指摘することでそれなりの意外性が準備されている。そしてまた、それに対して旧友がカウンターの推理を披露する、という風に一応ミステリ・ファン向けの体裁は維持されているが、それにしても異色作だ。比重は明らかに、ミステリより詩や哲学談義の方にある。

ところで今回『生けるパスカル』『表象詩人』の二冊を読んで思ったのは、松本清張はとにかく引き出しが多い作家ということである。題材にしろフォーマットにしろ、この中篇四つを読んだだけでもそれぞれ個性的なことに感心する。特に「表象詩人」はほとんどが詩と哲学に覆われ尽くしていて、ミステリとしては畸形といっていいくらいだ。が、その畸形的な部分が魅力になっている。

そして、実は松本清張のミステリにはどれもそんなところがある。そもそも松本清張が創始したと言われる「社会派ミステリ」も、一種の畸形的ミステリといっていいのではないだろうか。本格でもハードボイルドでも法廷ものでもない、企業小説とミステリ、不倫メロドラマとミステリ、社会問題告発ものとミステリのハイブリッド。

欧米のミステリにももちろん社会問題を告発するタイプのものはあるが、松本清張の社会派ミステリはそれらと異なる肌合いがある。どこか、ミステリらしくない部分がある。ミステリの中にあってミステリと反発する部分がある。

松本清張型ミステリへの批判として、何かといえば刑事が駅前の定食屋でお茶漬けをかっこむのが貧乏くさい、みたいな言われ方があるが、そもそもポーやドイルから始まったパズラー小説は貴族精神の産物で、こういう庶民臭さとは相いれないものだ。

ところが松本清張が書く小説があまりに面白かったために、本来は畸形的だった「社会派ミステリ」がある時期、日本のミステリの主流になってしまった。その後しばらくするとパズラー小説本来の魅力を取り戻そうという動きが起きて、新本格が登場して今に至る。

世界的なミステリ小説の系譜からすれば、松本清張のミステリは実はかなり異端的なのかも知れない、なんてことを本書を読みながら考えた。しかしその異端の小説が日本で一時期主流にまでなってしまったのは、やはり松本清張の作家としての技量を示すものだ。