拝啓天皇陛下様

『拝啓天皇陛下様』 野村芳太郎監督   ☆☆☆☆☆

日本版DVDを取り寄せて鑑賞。期待以上の素晴らしさで、もっと早く観なかったのを後悔した。

タイトルを見て、右翼対左翼イデオロギー的なものを感じて敬遠している人がいたら、心配ないのですぐに観て下さいと言いたい。これは反戦映画でもなければ、もちろん戦争賛美映画でもない。ただ、一人の純朴な男の人生を上質なペーソスとともに描き出した映画であり、それ以外の何物でもない。『男はつらいよ』と基本一緒だ。

主人公の山田正助=ヤマショウを演じるのは渥美清。その親友・棟本博を演じるのは長門裕之。この二人のバランスがとてもいい。物語の語り手は棟本である。棟本は後に物書きになるインテリで、ヤマショウは漢字も読めず身寄りもない田舎者。若いこの二人が、新兵として入隊した岡山の歩兵第10連隊で出会うところから、この物語は始まる。

まずは新兵全員が二年兵からいじめの洗礼を受けるが、身寄りのないヤマショウは食事風呂付きの軍隊を「天国じゃ」と言って気にする様子もない。その他、二人で遊興街の中島に繰り出して「射撃」したり、ヤマショウの帽子を棟本が調達してやったり、二年兵に復讐したり、訓練中に天皇陛下を見て感激したり、というエピソードが続く。

中でも印象的なのは、中隊長(加藤嘉)絡みのエピソードと漢字の授業だろう。中隊長は厳しいながらも本当に部下思いの上官で、門限破りで営巣入りしたヤマショウのところへ毎日やってきて一緒に正座したり、身寄りのないヤマショウの除隊時に仕事を紹介したりする。彼は心から天皇陛下を敬愛し、日本国を愛し、部下を慈しんでいる。

この中隊長は目立って出世するような人物ではないかも知れないけれども、その部下が生涯、暖かい敬愛の念とともに思い出す類の人物だ。ヤマショウもそんな中隊長を、口には出さないけれども慕うようになっていく。この二人の関係を見て心を動かされない観客はいないだろう。加藤嘉の演技の素晴らしさは言うまでもない。

それから漢字の授業。漢字を読めないヤマショウに、中隊長は初年兵の柿内から漢字の授業を受けよと命じる。後輩から授業を受けることを嫌がるヤマショウに、中隊長は「授業の間は柿内の言葉は中隊長の言葉であり、すなわち、畏れ多くも天皇陛下の言葉と心得よ」と命じる。

ちなみにこの映画の中で誰かが「畏れ多くも!」と言ったら、その場にいる全員が背筋を伸ばし直立不動の姿勢をとることになっている。

さて、しぶしぶ後輩の授業を受けるヤマショウだが、だらけたり凄んだりしながらも、だんだん漢字が読めるようになってくる。柿内も、一見がさつで横暴なヤマショウの人間味を知って、「おれは前科者だぞ。驚いたか」とヤマショウが凄んでも、「私が知っている山田さんは、親切で良い人です」と答えるようになる。

そしてヤマショウが除隊になる日には挨拶に来て、「もう山田さんは漢字が書けるようになっています。だから、必ず私に手紙を書いて下さい」と頼む。

さて、二年間のお勤めを終えて除隊になり、いったんヤマショウと棟本は離れ離れになる。棟本は妻(左幸子)をめとって内職に精を出すが、また赤紙が来て軍隊へ。そして偶然ヤマショウと再会する。

再び軍隊の中のエピソードが続くが、前の訓練時代よりだんだんシビアになってくる。特に、野戦へ行く命令を受けて頭がおかしくなる棟本の上司のエピソードは痛ましい。ちなみにこの上司の奥さん役は、『生きる』で天真爛漫な娘を演じた小田切みきである。出演作が少ない女優さんなので貴重だ。

さて、もうすぐ戦争が終わるという噂が流れると、軍隊を天国だと思っているヤマショウは天皇陛下に手紙を書いて軍隊に残してもらおうとするが、「バカかお前は、銃殺になるぞ」と棟本に叱られて諦める。が、戦争は終わらず、皆は前線に送られる。この時、ヤマショウと他の兵隊が喧嘩するエピソードで、観客は中隊長が戦死したことを知らされる。

ヤマショウが、自分の中隊長どのは戦死の際に「天皇陛下バンザイ!」と叫んだと言うと、他の兵隊たちに「バカじゃねえか」と嘲笑される。ヤマショウは激怒し、大喧嘩になって棟本たちが止めに入る。

やがて棟本は負傷して除隊になり、戦争体験を本に書いて作家になる。講演先でヤマショウと再会したり、また従軍作家として中国に行ったりしているうちに今度こそ終戦となり、妻と二人でボロ屋で困窮生活を送ることになる。作家ではもう食えなくなったのだ。こうして軍隊篇は終わり、ここから戦後篇となる。

棟本夫婦のボロ屋をヤマショウが訪ねてくる。図々しいヤマショウを最初は警戒していた棟本夫人も、やがて彼の飾り気のない人柄に好感を持つようになる。何度も訪ねて来るうちに、ヤマショウは棟本夫妻のアパートに住む未亡人に思いを寄せるようになる。棟本夫妻に仲を取り持ってくれと頼むヤマショウ。困惑しながらも未亡人に取り次ぐ二人だが、ヤマショウの恋は見事玉砕する。このあたりはもう、見事に「男はつらいよ」そのものだ。

とはいえ、ヤマショウの気持ちを伝える棟本夫人と未亡人の険悪な会話など、やはり「男をつらいよ」よりずっとシビアで、苦みがある。「育ちが違う」なんてひどいことを言う未亡人も、なじられた後ひとりで泣く姿は痛々しい。ヤマショウも、結婚するために自殺者の死体を引き上げて運ぶという物凄い仕事に転職して、「お前なんだってそんな仕事を」と棟本に言われるが、「だって払いがいいんだよ」と飄々と答える。

さすがヤマショウ、気にならないのかと思っていると、未亡人に断られるとポロポロ泣きながら棟本に言う。「おれのどこが悪いんだ、おれは一生懸命働いてるんだ。お前、死体をかついで運ぶなんてできるかよ。できるかよ」

彼だって、歯を食いしばって生きているのである。棟本は返す言葉がない。

そしていよいよラスト。ついにヤマショウが婚約者を連れてくる。似合いの二人である。喜び、祝福する棟本夫妻。そこに棟本のナレーションがかぶさる。「…これが、ヤマショウを見た最後だった」

まあ、ストーリーの説明はここまでにしておこう。ヤマショウの末路は悲しいが、決してお涙頂戴的な演出がなされているわけではない。どちらかというとさりげない展開だ。が、私たちはここまでの物語で、棟本夫妻と同じかそれ以上に、このヤマショウという人物を愛するようになっている。

従って、ことさらに涙を誘うような演出は不要なのだ。悲しげな音楽も泣き崩れる演技もいらない。新聞記事を見た棟本夫人が夫にそれを見せ、棟本は動揺し、警察に行ってくる、あわてるな、と言って妻を叱る。この二人のやりとりを、私たちはとても涙なしに観ることはできない。

そしてもう一つのさりげない仕掛け。映画の冒頭、軍隊に入ったばかりのヤマショウが文書を読んで尋ねる。「てんのうへいかのセキシ…セキシってなんじゃ?」

その時点で、答えはない。答えはラストシーンで分かる。同時に、その言葉はヤマショウという一人の男の完璧な肖像になっている。

これは反戦映画でもなんでもないと最初に書いたが、こういう映画を観て色々言いたくなる人はいると思う。「畏れ多くも」とか「天皇陛下バンザイ」とか、そういう言葉そのものに拒否反応を示す人もいるかも知れない。が、これはイデオロギーで観てはいけない映画である。

それでは意識が低過ぎる、と言われるだろうか。しかし私は、イデオロギーなんてその程度のものだと思っている。この映画が語るのは、イデオロギーよりもっと普遍的な人間の営みについてだ。人々は戦争や政治を重大事件と考え、梨の果実や雨漏りを日常的な些事と考えるが、果たしてそうだろうか、と疑問を呈したのはミラン・クンデラだった。実は戦争や政変は一時的なものであり、やがて過ぎ去るものだが、梨や雨漏りは永遠だ。人間にとって本当に大切なのはどちらだろうか。

ヤマショウは頭のいい男ではないが、人間というものの本質を見る目を持っていた。たとえば中隊長どの。天皇陛下を神と崇める中隊長どのの本質は、決して彼のイデオロギーにはない。それはたまたま彼が身に着けている服のようなもので、そこには何の重要性もないのだ。この映画が中隊長どのの中に発見する彼の本質とは、部下思いで思いやりに溢れた彼の人間性であり、それ以外にない。

ヤマショウや棟本が中島に行って女を買う行為も同じである。人によってはめくじらを立てるかも知れないし、ある意味それは正しいのかも知れないが、ただ、それはこの映画の本質ではない。この映画はイデオロギーなんてつまらないものではなく、人間の永遠の条件を描いているのだ。

ヤマショウのキャラクターは「男はつらいよ」の寅さんに似ている部分もあるが、やっぱり微妙に違う。まったく何の学もないヤマショウには、とびきり健全なイノセンスと、世界に対する根本的な肯定感がある。ひどい軍隊生活の中に放り込まれても、「ここは三度の飯もあるし風呂もある、天国じゃ」と言える知恵がある。もしかすると、本当の賢者とはこのような人間のことなのかも知れない。

そしてまた、これを観ると、やはり渥美清というのは稀有な役者だったのだなあ、と感じ入らずにはいられない。ヤマショウのイノセンスを体現できる役者は、どう考えても彼以外にない。