遠い接近

『遠い接近』 松本清張   ☆☆☆☆★

定期的に読みたくなる松本清張の、読んでも読んでもなくならない未読本の中から『遠い接近』を入手。これは太平洋戦争に徴兵されて家族をなくした男が、故意に自分を狙って召集令状を出した役人を見つけ出し復讐するという話。清張自身の徴兵体験をもとにしているらしい。

1944年、主人公の山尾は自営の版画工で、身体が弱い上に30歳を越えているのでもう赤紙は来ないと安心し、懸命に働いて家族を食わせている。自営業なので色々と忙く、教育教練にはあまり出席できない。すると突然赤紙が来る。ある軍人が漏らした言葉から、どうやらこれは「ハンドウ」らしいことが分かる。

「ハンドウ」とは何か。懲らしめや仕返しという意味だ。山尾があまり教育教練に出席していないことを知った誰かが、懲らしめのつもりで山尾を徴兵の対象にしたのだ。

自分は怠けていたのではない、生活のためにしかたがなかったんだ、と山尾は胸中叫ぶが、どうしようもない。短期間で帰れることに望みをかけて軍隊に赴く。ところが、そこでの生活は地獄だった。古参兵からの非人間的かつ理不尽なしごきが執拗に繰り返される。耐えられずに精神が破綻する、あるいは自殺する新兵たち。訓練が終わっても帰ることはかなわず、山尾は前線へと送り込まれる。

そして、ようやく終戦。地獄に耐えて生き延びた山尾は、広島に疎開した家族が原爆で全滅したことを知る。あの召集令状され来なければ…。闇屋の仲間に入って生活しながら、山尾は自分に赤紙を回した役人を探し出し、近づいていく。殺された家族の復讐をするために。

事前にあらすじを読んで、戦争はプロローグ程度で復讐が本筋かと思ったら全然そうではなく、前半はほぼ軍隊生活の描写一色である。そして終戦後の闇屋暮らしがしばらく続き、終盤になってやっと復讐計画が始動、推理小説らしくなる。

なんといっても圧巻は、前半すべてを使って繰り広げられる地獄のような軍隊生活の描写だ。会社員は徴兵期間も給料が出るので楽だが自営業は貯金を食いつぶすしかない、などという生活感たっぷりのディテールがリアリティ満点だし、軍隊の雰囲気も著者の体験がベースにあるだけあって生々しい。軍隊生活を描いた小説や映画は何度も読んだり観たりしたが、ここまでリアルな生活感を感じたのは初めてだ。

そして古参兵のしごきの恐ろしさ、理不尽さは筆舌に尽くしがたい。山尾の隊には安川という古参兵がいて好き放題やっている。「気合を入れてやる」と称して後輩の兵卒に暴行をふるうのだが、何の理由も必要性もなく、ただ憂さ晴らしや八つ当たりで暴力のはけ口にされる。いびられ、虐待され、侮辱され、人間の尊厳のすべてを踏みにじられる。家畜以下の扱いだ。耐えられずに自殺する兵卒も多いというが、まったく信じられないひどさである。

安川はこうやって後輩をいびりながら、自分は仮病を使って訓練をさぼっている。これを錬休兵という。訓練しなくていいかわりに外出もできないが、その不便さに耐えて、弱兵整理で除隊になることを狙っている。前線に出されることは死を意味するからだ。このあたりの軍隊生活内の政治、立ち回り方、そして本音と建前のありようなども実にリアルだ。軍人ほど上にへつらい下を虐待する、二面性が極端な人種はないという。

安川もこれだけ山尾を虐待しておきながら、いざ山尾が看護兵になると、医者に取り入るために山尾に対してもおべっかを使い始める。愛想笑いをしながら「なあ山尾、もう気合を入れたりはしないから心配するな。あれは先輩から言われて、しかたなくやったんだ。おれとお前の仲じゃないか、水に流してくれ」などとすり寄ってくるのである。松本清張の文章でこういう描写をされるとたまらなく心がヒリヒリしてくる。自分が山尾と一心同体になる。

広島は東京より安全だなどと言われながら終戦間際に原爆で全滅してしまう悪夢的な衝撃も、当時の人々の感覚がナマで伝わってくるような凄みがある。それから召集令状の対象者が決まるシステムと実態、「ハンドウ」の横行。終戦後の闇屋の仕事ぶり。本書の3/4は、赤紙をもらった男の壮絶かつ生々しいサバイバル記録として読めるし、それだけでもう十分に面白い。

そして最後の1/4で、ようやく倒叙推理小説になる。緻密な犯罪計画を立てて、自分に赤紙を送ってきた男と安川に復讐を決行する。警察が登場する。あれだけ慎重にやったんだから大丈夫だ、と自分に言い聞かせながらも刑事が来ると不安になる。

このパートは短いが、倒叙推理としての緊張感と丁寧な展開は見事だ。倒叙推理を偏愛する私も十分堪能した。犯人の目にとって何が盲点になっているのか、最後の最後まで分からない。大丈夫なはずなのに、不安感に苛まれる。警察の言動も謎めいていて、どっちに転ぶかまったく分からない。スリル満点である。

そんなわけで、本書は特異な戦争小説と倒叙推理が融合したような大変ユニークな小説だった。しかも傑作である。清張ファンは必読。