日日是好日

日日是好日』 大森立嗣監督   ☆☆☆☆

タイトルは「にちにちこれこうじつ」と読む。黒木華主演、樹木希林出演の茶道がテーマの映画と聞いて名作の予感がし、日本版ブルーレイを買った。原作は森下典子氏の自伝エッセイ。

エッセイの映画化なので、それほど劇的な大事件が起きるわけでもなく、ヒロインとお茶のかかわりが比較的淡々と綴られていく。物語の時間軸は短期間ではなく、お茶を始める大学生時代から就職できずフリーターとなり、やがてライターとなって自分の人生を見出していくまでの、一人の女性の人生の軌跡を辿る長い物語だ。

しかしあくまでメインはお茶の稽古で、人生の節目節目の出来事はその周辺事としてポツリポツリ言及される程度なので、大河ドラマ的な重たさは全然といっていいほどない。お茶がテーマのエッセイが原作の映画にふさわしく、淡麗であり、軽やかであり、ほどよく緩い。そこが胃もたれせずに良いという人もいれば、少し物足りないと思う人もいるかも知れない。

ヒロインの典子(黒木華)は大学時代に両親から勧められ、いとこの美智子(多部未華子)と一緒にお茶を習うことになる。先生は近所に住む茶道の先生、武田のおばさん(樹木希林)。典子は無数のしきたりやルールがある茶道の世界に戸惑いながらも、だんだんとその世界に安らぎや癒しを感じるようになっていく。

月日は過ぎ、いとこの美智子は茶道をやめて就職し、やがて見合い結婚のため退職、出産し、子育て、と順調に人生のコマを進めていく。一方で典子は就職できずフリーターとなり、美智子の思い切りのいい人生とその変遷を眩しく眺めながら、なんとなくフリーのライターとして書く仕事を続けるが、そんな中でも、ずっと武田先生のところでお茶の稽古を続ける。

典子はお茶の稽古から、そして武田先生からさまざまなことを学ぶ。もちろん、その学びがこの映画のエッセンスなわけだが、ではそれはどんなことなのか。

エッセンスの中でも第一番目に重要なのは、もちろん「日日是好日」という言葉である。映画の最初、典子と美智子は額に入ったこの文字を見てどんな意味だろうと頭をひねる。毎日がいい日、だろうか? その本当の意味を典子が実感できたのは、長い年月が過ぎた後のことだった。毎日毎日の、二度と戻って来ないそれぞれの瞬間を、全身で味わうこと。

「一期一会」に似ているし、またその意味も確かに含んでいるのだが、この映画の中ではもうちょっと違うニュアンスがあるようだ。典子は茶道を通して無心になることを覚え、その時に全身で周囲の事象を受容することを覚える。つまり、暑い日は全身で暑さを感じ、寒い日は全身で寒さを感じ、雨の日は全身で雨音を聴き、雪の日には全身で雪の光景を見る。

お茶と向き合っている時、彼女には普段聞こえない音が聴こえ、普段感じ取れないものを感じることができる。お茶の儀式に集中し、没入することによって感覚が研ぎすまされるのである。そして、そのように感じ取れる宇宙のすべてを含めた「茶事」に同じものは二つとない。だから、茶事のひとつひとつに真剣に向き合わねばならない。

つまり、一瞬一瞬が二度と帰ってこないから大切というだけでなく、その瞬間に起きている事象を全身の感覚を開いて受け入れ、味わう、ということも「日日是好日」は意味している。少なくとも、この映画ではそういうニュアンスを込めてあったと思う。

その意味でとても重要な、そして美しいエピソードは、典子が水音の違いに気づく場面である。お湯と水とでは滴る音が違う。また、梅雨と秋雨では雨音が違う。彼女はそれを自分の耳で知り、感動する。「日日是好日」を感得できた瞬間だ。

このような感動が日常の中にあるか否か、それはとても些細なことに見えて、もしかすると人生を左右するほど大切なことなのかも知れない。そう思わせられる場面だった。

それからもう一つ印象的だったのは、12年に一度しか使わない器のこと。武田先生が棚から出す器には干支の動物が描かれている。それを見て典子と美智子は「じゃあ、これは12年に一度しか使わないんですか!?」と驚く。先生は平然と「そうなるわね」

12年に一度しか出会わない器。次にこれでお茶を飲むのは12年後。その時自分は間違いなく、今の自分ではない。もしかすると、もうこの世にいないかも知れない。典子は武田先生のところに通いながら、そんな事柄の数々に出会っていく。

茶碗だけでなく、茶室、道具、お菓子、掛け軸、そうしたものの美しさがきらめくように描かれていることも、この映画の大きな魅力だ。特に季節折々の茶室の美しさは目に沁みるようで、個人的には障子の桟の形が変わるのが注目ポイント。

それから雨、雪、水、太陽の光といった自然の美も、もちろんそこにある。武田先生の茶室は、一個の小宇宙なのである。そこには世界の中の美しいものや大切なものが凝縮されている。

もう一つ、個人的に考えさせられたのは茶道というものの細かい儀式とルールの不思議である。最初に典子と美智子が武田先生のところへ通い始めた時、二人はさまざまな所作や規則の意味を聞く。これは何のためにするのか、と。すると武田先生は言う、意味は考えない。あなたたち全部頭で考え過ぎよ、習うより慣れろって言うでしょ。

これはどういうことだろう。あれだけ細かい、複雑な手順の意味を考えるな、ただ覚えろ、というのは合理的精神に反するように思える。自分がやっていることの意味や目的を常に意識しろ、とは会社でもよく言われることだ。

この映画の中には、その明確な説明はない。ただ、「あなた達は頭で考え過ぎる」というだけだ。これは私見だが、考えるのを止めるために細かい手続きやルールがあるのかも知れない。何事も意味を考えろ、のアンチテーゼである。形式を体に覚えさせ、ロボットになってそれを繰り返す。すると頭の中が空っぽになる。思考が止まり、無になる。一連の精緻な所作を体に記憶させることで、「思考を止める」ことを達成する。

武田先生がそれを意識しているかどうかは分からない。しかしおそらく、彼女はそれが人間にもたらす変化を知っている。美しい所作は、目的意識からではなく、無心になることから生まれる。「日日是好日」である。

合理性や利便性、あるいはロジックやコスパがすべてだろうか、と武田先生の稽古は問いかけてくるようだ。一見不合理な儀式とも思えるものの中に、つまり伝統や古いしきたりの中に、論理を超えた叡智がある。

さて、先に書いた通り、こうしたお茶の稽古の他に典子の人生にかかわるエピソードも描かれる。それはたとえば婚約破棄や、その心理的な傷や、その後の新しい恋愛のことだが、こうしたドラマ的題材はごく簡潔に、さらっと説明されるだけだ。相手の男の顔すら出てこない。唯一の例外は父親(鶴見辰吾)の死で、このエピソードは終盤の山場となっている。

道教室で色んな後輩が入ってきたこと、その中にすごい素質を持つ少女がいたこと、なども出て来るが、やっぱり軽く触れられるだけだ。この映画は全般に人間ドラマへの突っ込みは深くない。おそらくそれは意図的なものだ。あくまでこの映画の中心は茶道の心であり、典子がそれを学習していく過程なのである。

強烈なドラマ性、物語性がウリのあくが強い映画が氾濫する昨今、たまにはこういう淡泊な映画もいい。胃がもたれた時に食べるお茶漬けのような、ほっとする味の映画だった。