ダウト あるカトリック学校で

『ダウト あるカトリック学校で』 ジョン・パトリック・シャンリー監督   ☆☆☆☆★

Netflixで鑑賞。最近フィリップ・シーモア・ホフマンが出ている映画はつい観たくなるという癖がついてしまったが、これもそんな映画のひとつ。フィリップ・シーモア・ホフマンメリル・ストリープが主演ということで、演技派ふたりがガップリと四つに組んだ(<-死語?)、大変見ごたえがある映画になっている。

舞台は1960年代のニューヨーク。あるカトリック学校に、若い新任教師シスター・ジェイムズ(エイミー・アダムス)が赴任してくる。彼女は素朴な信仰を持ち、生徒たちを愛し、この世界をいとおしく思う純真な若いシスターである。しかしこの学校では、自由で柔軟な考えのフリン神父(フィリップ・シーモア・ホフマン)と、厳格で規律を重んじる校長のシスター・アロイシス(メリル・ストリープ)が対立していた。

ある日シスター・ジェイムズは、学校で唯一の黒人生徒ドナルドと彼に親切なフリン神父の関係に、一つの疑惑を抱く。苦しむ彼女はシスター・アロイシスに相談し、シスター・アロイシスはフリン神父に面と向かって問いただす。フリン神父は事情を説明するが、シスター・アロイシスはそれを欺瞞と見なし、更なる調査を進める。二者の対立は急激に深まり、学校は不穏な空気に包まれていく…。

もともと演劇だったというこの作品、やはりとても演劇的な映画である。主役二人の対立がもっぱら緊迫した会話劇によって表現されるのもそうだが、冒頭のフリン神父の説教のテーマが「疑い」、その後起きる事件の核となる心理的性質が「疑い」、そして最後、事件が結着した後に思わぬ形で残された呪いのような「疑い」と、一つのテーマに沿ってカッチリ組み立てられた筋がそう思わせる。

物語の中のエピソードは全体に奉仕するよう計算して配置され、セリフはテーマを掘り下げるために彫琢され、すべてが時計仕掛けを思わせる緻密さで仕組まれている。最近はフィクションをドキュメンタリー風に、即興風に(実際はどうあれ)撮るフィルムも増えているが、本作はその対極にある作品だ。

可憐なエイミー・アダムスも良いが、とにかくフィリップ・シーモア・ホフマンメリル・ストリープが素晴らしい。というか、この二人の芝居を見ることがすなわちこの映画を観ること、と言い切ってもいい。

フィリップ・シーモア・ホフマンは例によって曲者ぶり、その役者としての最大の武器であるカメレオン性を遺憾なく発揮する。最初は、お、珍しく人格者の役だな、意外に似合うな、と思って見ていると、だんだん怪しくなってくる。観客の心の中にも「疑い」が生まれてくる。

そして、メリル・ストリープ。映画によってはコミカルだったり可憐だったり、明朗闊達感も醸し出せる彼女だが、この映画の中ではそんなものは微塵も感じさせない。吊り上がった目、猜疑心に歪んだ口元、突き刺すような嘲笑。生徒を監視し、ちょっとでも何かあると容赦ない叱責の声が飛ぶ。こんな先生は絶対イヤだ、と誰もが思うだろう校長先生である。

若いシスター・ジェイムズが人間を猜疑心で見る彼女に耐え切れず、涙ながらに抗議するシーンもある。当然、いかにも悪役らしく登場するが、こちらはフィリップ・シーモア・ホフマンとは逆に、物語の進行とともに、ある種の理知を感じさせるようになっていく。この人はただの悪役ではない、と観客はある時点で気づくことになる。

そしてこの二人が真っ向から対決するクライマックスに至るわけだが、その途中できわめて重要と思われるのが、ドナルド少年の母親(ヴィオラ・デイヴィス)とシスター・アロイシスの会話である。シスター・アロイシスはいわば児童保護の立場から母親の協力を引き出そうとするが、母親は言う。「動機が何であろうと、あの子に親切にして、かばってくれるのならば、それだけでありがたいことなんです」

「なんて母親なの!」とシスター・アロイシスは憤るが、私たちは考えなければならない。この時代、白人ばかりのカトリック学校でたった一人の黒人生徒であることが、一体何を意味するのか。そしてその子の母であることが、一体何を意味するのか。

また別の時、フリン神父はシスター・ジェイムズに言う。「ドナルドのことを考え、彼の気持ちを思いやっているのは誰ですか? それを考えて欲しいのです。それはこの私であって、あの校長ではない」

最後、事件は意外な形で決着がつく。しかしそれまで常に確信に満ち、すべてを見通し、逡巡や疑いとは無縁だったように見えるシスター・アロイシスが、今や恐るべき「疑い」に苦しめられていることをシスター・ジェイムスに告白する。

こうして、「疑い」の苦しさを訴えるフリン神父の説教で始まったこの映画は、シスター・アロイシスの苦悩とともに幕を下ろすことになる。

一種のミステリ劇としても見ごたえがあり、役者の演技は濃厚、会話劇は緊迫感に満ち、ぎらつく刃のようにスリリングで沈毅なフィルム。観客に対してモラルとは何か、善とは何か、正しさとは、そして愛とは何かを鋭く問いかけてくる。誰が正しく、誰が間違っているのか。あるいは答えなどないのか。

やはり主演二人が芸達者なのが効いている。60年代のカトリック学校の重厚で落ち着いた雰囲気も、ひんやりと心地よい。