日本文学100年の名作 第9巻 1994-2003 アイロンのある風景

『日本文学100年の名作 第9巻 1994-2003 アイロンのある風景』 池内紀松田哲夫川本三郎・編集   ☆☆☆☆

しばらく遠ざかっていたが、再び「日本文学100年の名作」シリーズを読みたくなって今度は第9巻を入手。ちょうどミレニアムに移行する時代、ごく最近だ。

収録作は辻原登「塩山再訪」、吉村昭「梅の蕾」、浅田次郎「ラブ・レター」、林真理子「年賀状」、村田喜代子「望潮」、津村節子初天神」、川上弘美「さやさや」、新津きよみ「ホーム・パーティー」、重松清「セッちゃん」、村上春樹「アイロンのある風景」、吉本ばなな「田所さん」、山本文緒「庭」、小池真理子「一角獣」、江國香織「清水夫妻」、堀江敏幸「ピラニア」、乙川優三郎「散り花」、の16篇。タイトルの「アイロンのある風景」は、村上春樹の作品。

「塩山再訪」は、淡々とした私小説かと思って読んでいると最後に結構ヘヴィーな仕掛けが出てきて、軽く驚く。人間の暗部をえぐる鮮やかな転換は見事だった。「梅の蕾」は無医村に医者を呼ぶという、いわゆる「いい話」なんだが、この作者の簡潔な文体で記述されると妙に味がある。ことさらに情緒的、ウェットにならないクリスプな文体が心地良かった。

浅田次郎「ラブ・レター」は、日本で死んだ中国女の哀れさが胸に迫る短篇。一転してウェットな作品だ。これは前に短篇集『鉄道員』で読んでいて、その時は「いかにもお涙頂戴だな」と思ったものだが、こうやってアンソロジーの一篇として違う作風の中にまじって読むとなかなか良い。やっぱり短篇小説って、どんな作品と並ぶかで変わるもんだなあ。

次の「年賀状」はいかにも林真理子らしい、ぞくっとするうそ寒さを感じさせる現代的な短篇。いい気な不倫男への、女の復讐と悪意が痛烈だ。他愛のない話かも知れないけれども、このスムースな流れはやっぱりうまい。そして村田喜代子の「望潮」。今回の個人的ベストはこれ。嘘かホントか老婆の当たりや集団の話で、最後は無数のシオマネキのイメージに収斂していく。突拍子もなくそれでいて精密だ。語りも、一人称の回想から教え子の報告へと変化がついていて巧い。多義性と豊饒さと底知れなさが圧巻の、文句のつけようがない芸術品。

初天神」は老年期に入る女性たちの心理をきめ細かに描く佳品で、一人旅の女性の孤独感が際立つ。身につまされる感覚が侘しいが、ただ暗いだけではない強さがあって、そこが魅力だ。川上弘美の「さやさや」は、例によって朦朧とした不気味ファンタジーの世界。感覚と妄想だけでつないでいくような小説で、うまいとは思うが、このぶよぶよした感じが個人的に苦手だ。私は硬質な小説の方が好きなのである。

「ホーム・パーティー」も林真理子の「年賀状」に似た不倫もの、女の悪意もので、和やかなホームパーティーの中で軽くぞっとさせて終わり。女同士の化かし合いだ。「セッちゃん」は自分の子供がいじめにあっていることを発見する両親の物語で、これも大変身につまされる。実にイヤだ。筆致は軽いが内容は重たい。切実きわまりない短篇だが、終わり方が微妙にぬるい気がする。

表題作「アイロンのある風景」は、村上春樹が例によっていきあたりばったりに書いたような、ボヘミアンの人々のちょっとした光景を切り取った、モヤモヤする短篇。さらっと神戸震災が織り込んである。しかし、あれで最後「一緒に死のう」になるのは行き過ぎじゃないかな。この人の作品ならもっといいものがあると思う。

吉本ばななの「田所さん」は、職場にいる得体の知れない田所さんのことを書いたもの。展開が浅くて物足りない。次の「庭」は、父と娘のちょっとしたホームドラマ。さらっと書かれた小粒な短篇だが、後味は意外と悪くない。

小池真理子「一角獣」は、いやに虚無的な女性が主人公で、彼女が無口な版画家と白い猫が暮らす家で働く話。やがて版画家は自殺し、白い猫はいなくなる。いかにも小池真理子的な道具立てだが、筋にあまり動きがない。要するに心象風景なのだろう。もう一ひねりあるかと思っていたら、そのまま終わってしまう。「清水夫妻」は他人の葬式に出るのが趣味の夫妻の話で、これもさらっと終わる。ちゃんと収束しないでさらっと終わる短篇が多いのは、この時代のトレンドの一つかも知れない。

「ピラニア」は、まあ言ってみれば信用金庫勤めの男と中華料理屋の男の交遊記。色々あるが、多分プロットはどうでもよく、細かい日常の観察記みたいなものだ。ピラニアは最後にちょっとだけ出て来る。そしてラスト、「散り花」。舞台は現代でなくひと昔前で、生活に困窮した漁師一家の娘が海女になれず酌婦になる話。無骨な少女が女になっていく。花は散るが、新しい花が咲く。この短篇は悲しみや哀れさを表現するよりも、少女の生命力を肯定的に描いている。

以上であります。全体的には、不倫や悪意やいじめや老人の孤独など現代的な重たいテーマが多く扱われながら、過剰に荒涼としたムードでもない。柔らかな救いのようなものもちらほら見える、バランスの取れたアンソロジーになっている。人間の悪意を描いた作品がどれもエンタメ的で、読みやすく、筋がスリリングなこともそう感じさせる一因かも知れない。

また、直前の第8巻『薄情くじら』と比べるとユーモラスな作品が少なく、次の第10巻『バタフライ和文タイプ事務所』と比べると奇想が少ない、と言ってもいいように思う。内省性や潜行する悪意の印象が強い。奇想好きでオフビート好きの私としては残念だ。にしても、やはり充実したアンソロジーであることに変わりはない。

最後に、今回の私のフェイバリットを挙げると「望潮」「梅の蕾」「ラブ・レター」「清水夫妻」である。中でも「望潮」はダントツ。次点は「初天神」「年賀状」「セッちゃん」。村上春樹吉本ばななのビッグネーム二人は、個人的には肩透かしだった。