フラナリー・オコナー 楽園からの追放

フラナリー・オコナー 楽園からの追放』 ジュヌヴィエーヴ・ブリザック   ☆☆☆☆

アマゾンの作品紹介にはこうある。「『私たちは土でできている。汚れるのがいやなら、小説なんか書かないことだ』 米文学史上に特異な輝きを放つフラナリー・オコナー。39歳の若さで世を去った彼女の半生と作品を描き、その内面世界を読み解く」

こう書かれていると誰だって、本書は評伝かバイオグラフィーの類だと思うだろう。が、そう思って読み始めると戸惑うことになる。引用されるフラナリー・オコナーの言葉は地の文と見分けがつかず、だからどこからどこまでが引用なのか分かりづらいし、引用元が何なのかも明示されない。事実関係は説明されず、事実と意見は区別されず、感覚的なメタファーやアフォリズムが連発される。

文体は理性的というより感覚的であり、詩的である。アクロバティックな比喩が多用される。だから本書は、評伝としてではなく小説として読むべきだ。フラナリー・オコナーという小説家とその作品世界をモチーフにした、フランス人作家ジュヌヴィエーヴ・ブリザックの小説。

そう読まないと、おそらく本書の真価は分からない。訳者もあとがきで「およそ評伝とはかけ離れた、一種の創作とでもいえる本書…」と書いているが、まさにそれが本書の特徴である。

冒頭の一章から、ブリザックの文体は自在に飛翔する。そもそもこれは導入部であるはずの第一章でありながら、いきなり孔雀のことを語るのだ。フラナリー・オコナーの孔雀への情熱に、作者は興味を持つ。少し引用してみよう。

孔雀が尾羽を広げ、六十からの惑星が金色に輝くとき、そこに天体図を見る者もいれば、教会の無数の目を見る者もいる。そのとき孔雀は何か放電のようなものによって、一瞬、地上に縛りつけられた後に、解き放たれるかのように見える。

それからまた、こんな文章もある。

フラナリー・オコナーは、彼らを観察している。孔雀たちの反逆精神を、ショーマン的センスを、そしてだれの目にも明らかな彼らの神秘を、彼女は見つめている。

これが小説の文体でなくて何だろうか。しかも、見事に音楽的であり、散文詩的ですらある。物憂く、エレガントなリズムを持ち、知的で、しなやかな比喩が縦横無地に駆使される。しかも感情的、情緒的ではなく、フランスの作家らしい観念の戯れがある。

本書はこのように始まり、続いてフラナリーの父親のこと、母親のこと、フラナリーの世界観と切り離せないカトリックのこと、彼女を生涯苦しめた病気のこと、そしてもちろん、彼女が書くおぞましく残酷な小説のことを語っていく。

文章のトーンは第一章と同じで、フラナリー・オコナーという作家のことをロジカルに明瞭に説明していくというより、この作家のイメージを詩的に、曖昧な揺らぎとともに醸し出していくスタイルだ。

フラナリー・オコナーが語ったこと、書簡、関係者の言葉などが頻繁に引用されるが、前述の通り、それらは作者の声である地の文に溶け込んでいて、まるで「意識の流れ」の手法のような効果をあげている。あとがきで訳者が断わっている通り、引用符はほとんどない。だから、本書ではフラナリー・オコナー的文章とブリザックの文体が混然一体となっている。

この本を読むのにフラナリー・オコナーに関する知識が必要だろうか? 答えるのが難しい質問だ。もちろんフラナリー・オコナーという作家とその作品に親しんでいる人の方がよく分かるだろうし、面白いだろう。それは間違いない。

しかし、マストだろうか? そうは思わない。実際、私は本書を読む前にフラナリー・オコナーの作品をほとんど読んだことがなかった。本書読了後、興味を惹かれて短篇集を買った程度である。

今でも、自分がフラナリー・オコナーの良い読者とは言えない。きわめてアメリカ的、南部的、そしてなんとなく旧約聖書的な苛烈な印象を与える彼女の小説世界は、あんまり私の好みじゃないのである。が、本書は違う。ブリザックが書いた本書を「小説」として読むならば、この世界観は全然フラナリー・オコナー的ではないと思う。アメリカ的でも南部的でもなく、フランス的である。

つまり本書にとって、フラナリー・オコナーはあくまで題材であっり、料理でいうならば食材だ。調理方法はブリザック独自のものだし、出来上がった料理もブリザック風味。私はそこに惹かれるし、そういう読み方をするなら別にフラナリー・オコナーの小説を読んだことがなくても、それほど支障はないように思う。

もう一つ断っておくと、オコナーを題材とした小説といっても、これは彼女の生涯のストーリーをドラマのように書き綴ったものではない。確かに、おおむねフラナリーの人生に沿った形で書かれてはいるけれども、話はあちこちに飛ぶし、具体的な出来事やアクションよりも、作者の関心は観念やメタファーの方に向いている。だからストーリーを読む楽しみは、あまり求めない方が良いと思う。

評伝でもなければストーリーでもないとすれば何なんだ、と思われる方も多いだろう。そんなもの面白いのか、と。私はとても魅力的だと思うが、確かに、本書は読者を選ぶと思う。

あえて言えば、本書はフラナリー・オコナーという一人の芸術家の神秘を見つめ、その本質を詩的なイメージとして捉え、提示した、小説とエッセーの中間のようなテキストである。とても思索的で、詩的イメージに満ちている。