アブサン 聖なる酒の幻

アブサン 聖なる酒の幻』 クリストフ・バタイユ   ☆☆☆☆

このクリストフ・バタイユという作家は1993年に若干21歳で華々しくデビューし、日本でも『安南』『アブサン』『時の主人』と立て続けに翻訳が出て、結構盛り上がった記憶がある。エンタメではなく、どれも美しくメランコリックな、少々幻想小説めいたロマンということで、個人的にもかなり期待したのだが、その後全然翻訳が出てこない。本国では定期的に作品を出しているようなので、初期三作より劣るという判断だろうか。

まあそれはともかく、90年代の初期三作『安南』『アブサン』『時の主人』はどれも良い。ストーリーはいつも簡潔で、端正かつ静謐、瞑想的で、濃密なロマンの香りが立ち込める。それぞれ「ベトナム」「アブサン」「時計」と核となるイメージがしっかりあって、そのまわりにさまざまな断片が付着して結晶体になったような、そんな小説ばかりだ。

さて、本書のコアとなるイメージは、アブサンという酒である。ニガヨモギを原料とし、アルコール度数が強く、かつては広く飲まれたがやがて中毒性があるために禁じられた緑色の酒。この禁断の酒そのものが想像力を掻き立てる題材だが、この物語はそんな神秘的な酒のイメージが発酵して生まれたような、ミステリアスな、茫洋としてつかみどころのない、夢のような物語である。

ストーリーらしいものはあまりないのだが、本書においては構成が重要なので、流れを説明する。舞台はフランスである。まず、序章でジャン・マルデという男のことが語られる。戦争でアブサンの陶酔を覚え、軍隊から逃げ出して故郷の村に帰る。やがて家族を置いてブエノスアイレスに行って働き、そのうち小さなアブサンの店を開き、フランスの家族とは音信不通になる。現地で家族を持つ。しばらくすると再び家族を捨て、ニューヨークへ渡る。この部分が三人称で語られる。

章が変わって本編となり、舞台はプロヴァンスの村。語り手は「私」という一人称になり、村に一人で住むアブサン製造者ジョゼのことが語られる。その頃「私」はまだ子供で、両親や、マリーという若い乳母と一緒に定期的にジョゼの家を訪れる。

「私」の回想はとりとめがなく、特定の事件や出来事を追っていくわけではない。マリーと自分の遊びのこと、マリーが突然いなくなったこと、ジョゼの家でアブサンの製造工程を見たこと、チェッカーを覚えたこと、戦争が起きて父が出征したこと、などのエピソードが断片的に並べられていく。

クリストフ・バタイユの小説作法はいつも同じで、エピソードの意味や因果関係がほとんど説明されない。一見気まぐれに話があちこちに飛び、脇道に逸れ、物語の全体像は常に謎めいたオーラに包まれたまま進んでいく。

文体も同様で、一つの章がいくつもの短い断章に分断されているし、個々のセンテンスも短い。寡黙な文体だ。ただ短い文章に要所要所で詩的なメタファーが差し込まれ、文章を多義的に、暗示的に膨らませる。

そんなこまごましたエピソードが積み重なっていき、やがてアブサンの中毒性が危険視される時代になる。ジョゼの家に役人がやってくる。ついにアブサンが禁止され、ジョゼはある日姿を消す。

物語の骨子は大体そんなところだ。直線的に展開する筋はなく、エピソード間の因果関係も曖昧である。ジョゼがなぜプロヴァンスに来たのか分からないし、父と母とジョゼの関係もはっきりしない。ジョゼの家にいた女たちが何なのかも分からない。すべては、瞬間的にきらめいては消えていくイメージの断片でしかない。

時系列もシャッフルされている。後年「私」が知った話が幼少期の話にまぎれこみ、さらにそこへ父や母の物語が紛れ込む。前にレビューを書いた『時の主人』と同じで、これもプロットに依存しない小説である。コアとなるイメージと、断片的テキストの積み上げと、謎めいた余白で成り立つ小説である。

とてもシンプルな手法だが、クリストフ・バタイユの初期三作においてはこれがきわめて大きな効果を発揮している。なぜこんなことが可能なのか。そのヒントは、作中でジョゼが語るアロエの物語にあるような気がする。

その神話はこんな風に紹介される。パタゴニアに巨人たちがいた。アロエという女が現れ、オレンジ色の布をまとって波打ち際でダンスをした。巨人たちはアロエに魅せられた。やがてアロエは、嫉妬した女たちに殺された。

これだけである。まったくストーリーというほどのものではない。が、この神話は最後に「詩人の言葉では、タンゴとはオレンジ色のことである」というフレーズで締められる。このフレーズが、この簡単な話を「物語」化する。ごくシンプルながら、物語原型の器にポエジーを注入するのである。

おそらくこれと同じことを、作者クリストフ・バタイユはこの小説全体でやっている。重要なのは文体だ。簡潔な文体のあちこちに、物語化の触媒となるメタファーや、観念や、暗示が仕込まれている。いわば物語というパンを膨らませるイースト菌だ。

これによって、バラバラの断片的エピソードを苦労して繋いだり、論理的に説明したりする必要がなくなる。読者が想像力を膨らませることで、勝手に物語が立ち上がってくる。その物語は謎めいていて、蜃気楼のようにはかなく、つかみどころがない。そして、だからこそ美しい。

これはひとつの魔法と言っていいのではないか。当時、若干二十いくつだった作者がこんなテクニックをどこで身に着けたのか、不思議でしかたがない。しかしこの小説を読めば、その魔法を確かに感得することができる。この小説には、どこか酒に似た酩酊感がある。