自由が丘で

(出典:https://eiga.com/)

 『自由が丘で』 ホン・サンス監督   ☆☆☆☆

『三人のアンヌ』の面白さにびっくりし、その後色々と観まくっているホン・サンス監督作品だが、加瀬亮が出演している映画があると知ってさっそくAmazonでDVDを取り寄せた。それにしてもホン・サンス監督の映画、ブルーレイのソフトがあんまりないな。やっぱりマニア向けの映画監督なんだろうか。

ちなみに、自由が丘といっても舞台は日本ではなく、韓国のソウルである。「自由が丘」というのはカフェの名前。

さて、この映画は加瀬亮演じる日本人青年モリが韓国の民宿みたいなところに滞在し、昔の恋人クォンに会おうとするがなかなか会えず、なんとなく宿の親戚の男とつるんで飲み歩いたり、カフェの女主人と親しくなって寝たり、というエピソードがとりとめなく並べられるスタイルだ。やはりホン・サンス独特のセンスを強く感じさせる映画で、淡々としていながら見ごたえがある。

どこがホン・サンス的かというと、まずメタフィクショナル性。『三人のアンヌ』はそもそも虚構中虚構だったが、これはそうではない。が、この映画のストーリーはモリがクォン宛てに書いた手紙の内容ということになっていて、クォンが一度落したために手紙の順序がグチャグチャになっている。しかも、一枚拾い忘れたためにその部分が欠けている。

だからこの映画も乱丁・欠落ありで進んでいく。モリが本来意図した、時系列通りの手紙の内容ではなく、アクシデンタルにシャッフルされた状態で観客の目の前に呈示されるわけだ。

モリがカフェの女主人に聞かれ、自分がその時読んでいる本の内容を説明して、「時間」には実態がない、と言うが、これがこの映画のストラクチャーを示唆している。ちなみにこの本は、実際に加瀬亮が持っていた自分の本だったらしい。

第二に、エピソードの断片性。語られるエピソードの順序はバラバラ、肝心なところが抜けているわけだから、当然ストーリーは首尾一貫しない。混乱し、行き当たりばったりの印象がつきまとう。何がどうなっているのかつかみづらい。欠落しているのは多分カフェの女主人とのアバンチュールの結末部分だけれども、言ってみればストーリー的には一番重要な部分である。が、そこがどうなったのか分からない。なんとなく想像はつくけれども、よく分からない。にもかかわらず、映画はそのまま終わってしまう。

この映画では、ストーリーの主要な柱は二つある。カフェの女主人ヨンソンとの話は彼女の犬を見つけ、一緒に酒を飲み、つきあい、何やってんだオレ、と悩む流れ。ついでに、ヨンソンには横暴なボーイフレンドがいる。最後はおそらくモリとボーイフレンドが喧嘩したんだろう。

もう一つはゲストハウスの女主人の甥サンウォンと仲良くなり、飲み歩く流れ。サンウォンは借金まみれの一文無しである。

それ以外にも、他とつながらない不思議な断片がいくつか。たとえば、ゲストハウスに泊まっている髪の長い女性のエピソード。サンウォンが気軽に声をかけて喧嘩になる。不倫している様子で、不倫相手の男が訪ねてきてモリと会話したりするが、それだけだ。

モリが夕方五時まで寝ていて、ゲストハウスの女主人とサンウォンがやってきて起こそうとするが起きない、なんて場面もある。こういう特に意味がない緩いエピソードがあるのも、『三人のアンヌ』とよく似ている。ラストシーンも、なぜあれがラストなのか分からない。というより、多分ラストシーンらしくない場面で終わりたかっただけなんだろう。なんでも良かったんだと思う。

そして肝心のクォンとの再会は、まったく進捗しない。モリは置手紙を置いて待つのだが、連絡は来ないし、彼女のアパート周辺をうろうろするが会えない。

会えるの最後の最後だが、会った瞬間にこの映画は終わってしまう。つまりこの映画は、重要テーマであるクォンとの再会が成就しない間の、余計でムダなエピソードの寄せ集めという見方もできる。

そして最後、三つ目の特徴は、繰り返し。これは『三人のアンヌ』ほど顕著ではないものの、たとえばモリは色んな人から繰り返し「韓国には何をしに来たの?」と尋ねられる。おそらく現実の旅行者もこんなものだろうが、他の映画では、あんまりこういう繰り返しは起きない。余計な、邪魔くさいことだからである。

しかしホン・サンス映画では、こういう余計なことが省略されず、その代わり重要なことが省略される。その外し方、ピントのズラし方が独特のリズム感とオフビート感を醸し出す。

加瀬亮ナチュラルな演技は、ホン・サンス監督の映画にとてもよくフィットしている。これは結局ストーリーではなく、空気感で見せる映画なのだと思う。それを徹底するためのさまざまな仕掛けなのだ。つまり時系列シャッフルによって、映画はストーリーや因果律のコンテキストから解放される。全部見終わった時にはじめて、淡い蜃気楼のように全体像が浮かび上がるようになる。

ストーリーを追うことに縛られず、意味を考える必要もない。ただ映画を観る快感に満ち溢れた映画である。やはり、ホン・サンス監督は只者ではない。