前世への冒険

『前世への冒険』 森下典子   ☆☆☆☆

これはかなり変わった本だった。あなたは前世でイタリアの彫刻家だった、と言われた著者・森下典子氏が信じられないと思いつつもこの彫刻家に惹かれてフレンツェ、ポルトと旅をする話で、つまりノンフィクションである。前世が最重要テーマになっていながらノンフィクション。しかもトンデモ本の類ではなく、筆者は前世に懐疑的な常識人。これは変わっているし、なかなか成立させるのが難しかったテキストではないだろうか。

ノンフィクションといいながら実は小説なんじゃないか、と思いながら読んだが、どうも本当にノンフィクションらしい。筆者はライターの仕事で、ある女性を取材し、その中であなたは前世で彫刻家だった、と告げられる。加えてその女性は、彫刻家の名前や生い立ち、仕事仲間や人間関係などの情報を「ただ頭に浮かんでくる」と言いながら色々と提供する。

前世を信じない著者はそれでもこの彫刻家、デジデリオに関心を持ち、色々調べるうちに、女性が提供した情報は意外と信憑性が高く、しかも時々歴史書にさえ書かれてないほどに詳細であることが分かってくる。まさかね、と思いながら筆者はだんだんのめり込み、やがて彫刻家がいたフィレンツェポルトに行ってみたい、と考えるようになる。

この、著者の「信じられない」という感覚と、「でももしかしたら」と時に思ってしまう気持ちの揺らぎがリアルだ。ノンフィクションとしての本書のリアリティは、この揺らぎが支えていると思う。もし作者が「前世」肯定論者だったら、この本はすっかり様相を変えてしまうだろうし、ここまでの説得力を持つことはなかっただろう。

そしてこの本は当然ながら、ルネッサンスの時代に生きた彫刻家デジデリオの物語でもある。著者は「花のデジデリオ」と称されたこの夭逝した芸術家に惹かれ、彼の人生と芸術を調べ、その肖像を言葉で描き出していく。筆者の筆はルネッサンス期の爛熟した雰囲気をありありと再現していく。そこでは芸術が咲き乱れ、人間の美しさ賛美の中で、男色や少年愛が容認された。そんな時代に生きた美しい青年デジデリオの人生は、清澄なキリスト教的彫刻の数々と放埓な性という、二つの相反する要素に彩られていた。

著者は実際にヨーロッパへ旅し、そこでさまざまな協力者の助けを得て、実際にデジデリオの彫刻を目にする。そして当時の歴史的背景、作品の記録や文献をあたり、自分の「前世」の情報と突き合わせながら、デジデリオの人生を自分のもののように、いわば「生き直して」いく。なんせ、著者はデジデリオの生まれ変わりかも知れないのだから。

こんなことからも、本書がきわめてユニークな体裁のルポであり、同時にルネサンス期の一人の彫刻家の伝記であることが分かっていただけると思う。私は思うに、本書には三つの魅力がある。前世というミステリー、彫刻家デジデリオとルネサンス期の魅惑、そして現代日本に生きる著者がそれに共鳴し、呼応するという不思議な感動。

前世というミステリーに作者がどういう結論を出したかは、ここには書かないでおこう。彼女の態度は最後まで誠実である。「前世」が本当であれ虚構であれ、本書のメッセージは最後の著者の言葉に集約されている。「人間はどこから来て、やがてどこへ帰るのかわからない。けれど、どこから来て、どこへ帰るにしても、人生は心からしたいと望むことをするためにある」

最後にもう一つ、本書を読みながらとても興味深く感じたことを書いておきたい。本書はその内容からとても幻想文学的なので、幻想文学好きの私は「小説」と「ノンフィクション」との文体の違いに関心を持った。というのも、非現実的な小説が成立するには文体による「現実」の扱いがきわめて重要だからだ。

本書の文体は間違いなくノンフィクション文体である。小説の文体ではない。本書の内容を小説の文体で書いたら全然違うようになるだろう。何がそう思わせたかと言うと、小説文体が多かれ少なかれ持つ「曖昧性」への志向が本書にはきれいさっぱりないことだった。作者は正確で、誠実で、分かりやすい記述を心がけている。それは日本の描写もそうだし、調べて書いているルネサンス期の描写でもそうだ。その叙述の最大の特徴は明澄性であり、多分それこそが、筆者が優秀なライターである証左なのだ。

一方、小説が目指すのは解説や説明ではなく、むしろ曖昧性であり多義性である。小説である限りどんな小説でも、どこかに意味をぼかそうとするベクトルが働く。余白を作り、読者の想像力に訴えようとする。もちろん小説にも説明はあり、ノンフィクションにも余白はある。が、作家の基本的な姿勢、テキストの方向性が、やはり違っている。多分それは、何もないところから書くことと、事実があるところから書くことの違いだろう。

本書を読み終えて、そんなことも考えされられた。