三つの物語

『三つの物語』 フローベール   ☆☆☆☆☆

これまで旧かなづかいの岩波文庫版(絶版)しか持っていなかった『三つの物語』が、光文社古典新訳文庫で出たことを知り入手した。フローベール作品中、私がもっとも好きな中篇集である。現代かなづかいになって、ぐっと読みやすくなった。岩波文庫の旧かなづかいも格調高い感じで悪くなかったが、読みやすいのはいいことだ。しかも、もともと読みやすい中篇集なので、ますます読みやすい。サクサク読めて、にもかかわらず芳醇な物語世界が広がるという至福の芸術作品である。

訳者の谷口亜沙子氏は解説で、これをフローベールの最高傑作と評しているし、またフランスでの読者人気もこれが一番高いという。なぜこれが日本では長いこと絶版になっていたのかさっぱり分からないが、いずれにしろ新訳の出版は喜ばしい。私は本書を、すべての小説好き読書好きに強力にプッシュしておきます。

さて、本書の収録作品は「素朴なひと」「聖ジュリアン伝」「へロディアス」の三篇である。ちなみに、岩波文庫版ではそれぞれ「まごころ」「聖ジュリヤン伝」「ヘロヂアス」というタイトルだった。大体どんな話かは昔のブログに岩波文庫版のレビューとして書いたので、そちらをご参照下さい。ここでは違うことを書きます。

「素朴なひと」は召使として一生を送りながら次々と愛する人をなくし、それでも素朴な信仰を失わなかったフェリシテの物語だけれども、これは一般に冷たく辛辣といわれるフローベールの、あたたかい心を結晶させた短篇作品と言われているらしい。それも納得の内容で、スピーディーにサクサク読め、ギリギリまで切りつめられた、冗長さなど一切ない人生のストーリーでありながら、噛みしめるほどにひたひたと静かな感動に胸を揺さぶられる。特に、フェリシテとオウムの関係に泣ける。

「聖ジュリアン伝」はタイトル通りの聖者伝説で、王家に生まれた子供と予言、という趣向がとってもおとぎ話めいているが、子供時代のジュリアンが動物の殺戮に喜びを感じるようになるあたりで、むしろ現代的な、精神病理学的に暗いテーマであるように思わせる。しかしジュリアンは自分の心の中のそういう暗い部分に恐怖を抱き、悩んで彷徨する。

そういう意味で、これは聖者の聖者らしい行動の数々を紹介する偉人伝説ではなく、悩み、彷徨する、未完成な人間の姿を描いた小説だ。訳者が言う通り、明晰で、透明で、水晶のようにクリアな物語だ。

最後の「ヘロディアス」はサロメの踊りとヨカナーン斬首の光景を描いたものだが、これがもっとも分かりづらく、訳者もそのことについて詳しく解説している。前に岩波文庫版で読んだ時は、自分になじみのない聖書の世界を描いたものだからかなと思ったが、谷口亜沙子氏の解説によるとそうではないらしい。彼女が言うには、これはフランスの読者が読んでも分かりづらいものであり、しかもフローベールがそう意図した、というのだ。

つまり、フローベールの目的は歴史をそのまま描くことではなく、あくまで小説芸術として、創作として、読者に詩的な感興をもたらすことにある。そしてその目的のためには時代考証もあえて無視されるし、部分的には意図的に曲げられた部分もある。歴史上の人物や事件についての注釈や説明も、あえて省かれている。

だから読者は、分からなくていいから読み続ける、という態度が正しい。そうするとフローベールが意図した通りに、遠い時代の情景がまざまざと浮かび上がってくる。それは歴史の蘊蓄ではなく、官能と残酷とむせ返るほどのエキゾチズムに彩られた、イエス・キリスト登場前夜の神話の時代の物語である。

ところで、さっきから何度も引用しているが、本書のもう一つの価値はなんといっても訳者・谷口亜沙子氏の解説とあとがきにある。これほどまでに力のこもった、懇切丁寧な、しかも読者の役に立つ解説は稀だ。これを読むことで三つの中篇の素晴らしさがスッキリと理解でき、感動がいや増す。特に「素朴なひと」のフェリシテとオウムの関係は、これを読むことでさらに感動的になること請け合いだ。

そして更に私が感心したのは、この三篇を一つに束ねることで生じる、響きあう美しさについても言及されていることである。短篇集やアンソロジーには確実にそういう性質があって、同じ作品でも異なる作品と一緒に並べられると響きが変わってくる。アンソロジーや短篇集の愛好者なら分かると思うが、本書ではこの三つの中篇がどう響き合い、どうハーモニーを奏でるのかにまできちんと言及してある。この解説はまったく素晴らしい。

当然、フローベールという作家の特質についても詳しい解説がある。特にそれを翻訳者の立場から書いてある部分が面白くて、たとえばフローベールは最初は比較的わかりやすい文章を書き、そこからどんどん言葉を削ぎ落していき、これ以上やるともうまったくワケわからなくなる、というところでようやく完璧、と思う作家だったそうである。

だから訳者として日本の読者向けにどこまで注をつけるかとても迷ったというのだが、この誠実な姿勢は素晴らしい。要するに、フローベールは書くことと書かないことの選択に命をかけた作家だった。つまり、書くことと同じように書かないことも重要だった。情報が多ければ多いほど良いということはなく、むしろ小説においては情報を隠すことが大事なのである。従って、安易に注をつけるのはむしろ害がある。

私はこれを読んで、ミラン・クンデラ『裏切られた遺言』の中で、ヘミングウェイの「白い象のような山々」について書かれた一章を思い出した。そこでクンデラはある大学教授がヘミングウェイのこの作品を批評するにあたり、あらゆるヘミングウェイの伝記的事実を持ち出し、読者に情報を与え、それによって結果的に作品の美しさをぶち壊してしまったことを指摘している。なぜならば、芸術作品にとってはあることを言わない、書かないことが、その作品の美しさにとって生命線である場合があるからだ。

だから私は、小説でも映画でも、作家の伝記的事実や作品の背景を知らないと本当の作品の意味や価値は十分には分からない、などという説には耳を貸す気になれない。芸術作品においては、情報があることと同じかそれ以上に、省かれていることが重要である場合が多い。フローベールが文章からどんどん情報を削っていって、分からなくなる一歩手前で作品が完璧になるというのは、そういうことだと思う。

本書には、そんな神業職人フローベールが晩年になって到達した至高の境地を示す三つの中篇が収録されている。繰り返しになるが、小説愛好者なら絶対に読むべき一冊である。ようやく絶版状態を抜け出した今がチャンスですぞ。