隠花の飾り

『隠花の飾り』 松本清張   ☆☆☆☆★

松本清張の短編集を読了。短編集ということで、有名な「顔」「疑惑」みたいないつもの社会派ミステリを予想したが、これはだいぶ趣きが違う。一篇一篇が特に短い。前読んだ『憎悪の依頼』に似た雰囲気である。

晩年に書かれた作品集らしい。松本清張のあとがきを読むと、三十枚という制約の中で書いたが、三十枚でも、百枚にも当たる内容のものをと志向した、とある。さすがの志の高さだ。

阿刀田高が書いた巻末の解説では、アイデアには衰えがあるけれども円熟の筆力で読ませる、といういささか辛めの評価になっている。推理小説としてのアイデアはさすがに若い頃の方が冴えていた、ということのようだ。が、私はそうは思わなかった。むしろ、ちょっとしたアイデアを構成の妙や、着眼の面白さによって一篇の小説として屹立させる腕に感嘆した。

短編集全体としては、きわめてバラエティに富んでいる。題材の選び方もそうだし、個々の短篇のストーリー展開や構成方法が一様ではない。かなりトリッキーだなと唸るようなものもあって、あらすじだけ聞くとよくある話なのだが、ちょっとしたひねりを加えることで作品として成立していたりする。

それからひとつひとつがひどく短いので、文体というか語り口はひときわ簡潔だ。余分なものは一切ない。ギリギリまで削ぎ落し、物語の濃度を上げてある。これが松本清張いうところの「三十枚でも百枚」の意味だろう。すると当然のことながら、細々したディテールで幻惑するのではなく、プロットと構成と視点で勝負することになる。必然的に、読者は松本清張的ストーリーのコア部分が剥き出しになっているような印象を受ける。

従って、ミステリ作家的に言えば、おそらく阿刀田高の言うことが正しい。推理小説としてのアイデアがあり、それを読ませる作品として仕上げるためのディテールを精緻につめ、ひとつの工芸品のように完成させるのが作家の仕事とするならば、アイデアはよくある題材を使い、細かなつめは大胆にカットしてごろりと投げ出したような短篇はベストではないということだろう。いってみればピカソマチスがフルに色彩を駆使して時間をかけて制作した大画面の油彩画と、ささっと一筆書きしたスケッチの違いというところだろうか。

しかしながら、場合によっては一筆書きの方が技巧の凄みや冴えを如実に伝える、ということだってあるのである。私は特にそういうのが好きだったりする。そういう意味で、私はむしろアイデアの新奇さに頼らず、ちょっとした題材を言葉のマジックで作品に仕上げている本書を評価したい。

何篇か読んですぐ気づくのは不倫の話が多いことだ。ほとんどそうだと言っていい。これを見ても、ことさらにユニークなアイデアや設定を絞り出だそうとしていないことが分かる。むしろ同じネタを使ってどれだけ色んな調理法を見せられるか、が本書の勝負どころだ。

もちろん、男女間の愛憎のもつれや情念こそが人の人生を誤らせる最大の魔物だ、という認識が、松本清張文学の根本にあるということでもあるだろう。

冒頭の「足袋」はこの短篇集の特徴を凝縮したような一篇で、簡潔な語りと、ストレートなプロットと、特段のギミックなしに足袋のイメージだけで小説を締めてしまう大胆さが印象的だ。「え、これだけ?」と一瞬あっけにとられるような締め方で、それを物足りないと思うか洒落てると思うかで、この短篇集全体の評価が変わってくるに違いない。

表題作の「百円硬貨」はさすがに傑作で、ストーリーもツイストが効いていてミステリの読者に一番アピールする作品だと思う。プロットも引き締まっていて、簡潔でクールな前半の叙述と、臨場感たっぷりの終盤の緻密な叙述の対比が鮮やかだ。これにもうちょっとユーモアを足すと、ロアルド・ダールの短篇みたいになるんじゃないか。

お手玉」は阿刀田氏があまり評価していない作品だが、私は面白かった。二つの事件の簡潔な記述を組み合わせてあり、それぞれの事件はそれほど目新しくはないが、市井の人々の生活にある闇がゾッとさせる。組み合わせの緩さも心地いいし、男があわれ、のフレーズで対比させて締める語り口も巧い。

「再春」も巧緻な短篇だ。小説を書く女性が主人公だが、短い中にも「これ、この先どうなるんだろう」と読者を惑わせるつかみどころのなさがあり、作中作も面白い。後半の展開も意外だし、人間の心理のコワさに背筋が寒くなる。曖昧なラストにも余韻と膨らみがある。

他の短篇にも何かしら工夫があり、読んでいて愉しい。ミステリだと思わず、変わった味の掌編小説集だと思って読むといいかも知れない。松本清張の小説巧者ぶりを堪能できる。