死ぬことと見つけたり

死ぬことと見つけたり(上・下)』 隆慶一郎   ☆☆☆☆☆

隆慶一郎の時代小説の面白さは、これまで『影武者徳川家康』『吉原御免状』『かくれさと苦界行』『柳生非情剣』あたりを読んで大体分かったつもりでいたが、この『死ぬことと見つけたり』でまだまだ甘かったことを思い知らされた。これは晩年の作なのだが、小説としての面白さが神品の域に達している。これまでの作品の延長線上にありながら、またひとつ突き抜けた感じなのである。

それはたとえば、なかなか具象画の伝統を振り切れなかったカンディンスキーがついにピュアな抽象画を描き出した時のような、そんな開放感と自由自在感をともなう突き抜け方だ。プロット作りとストーリーテリングの両面において、大胆さ、奔放さが目に見えてグレードアップしている。これは凄いことだと思う。

本書は著者の急逝により未完となっていて、それがこれまで敬遠していた最大の理由なのだが、本当に読んで良かった。これまで読んだ隆慶一郎の小説の中で、私はこれが一番好きだ。

さて、本書のテーマは「葉隠」である。著者は序文で葉隠との出会いをかなり詳しく説明しているが、葉隠とは軍隊における聖書みたいな書物だったという。徴兵された著者は、最初まったく関心がなかった葉隠を他に読むものがないのでやむを得ず読むうちに、これは実はえらく面白い、波乱万丈の物語だと気づいた。それは葉隠の一般的な読まれ方とはまったく異なる読み方だったらしいが、とにかくその「葉隠って面白い」という著者の驚きが歳月とともに発展し、熟成して、この物語に結実したというわけだ。

では、「葉隠」と何を意味するのだろうか。ここで、「葉隠とはすなわち」などと滔々と説明できる博識を私が持ち合わせているはずもないが、本書を読み終わっての勝手な思い込みで言えば、本書のタイトルにもなっている有名な「武士道とは死ぬことと見つけたり」という文言が、そのエッセンスと考えて良さそうだ。

つまり、「死ぬ」ことこそ武士の本分だと考え、いつでも笑って死ぬ準備ができている、ということである。

いかにも玉砕や特攻をやった日本の軍隊が「聖書」にしそうだ、とうさんくさく思う人もいるかも知れないが、本書の主人公、杢之助(もくのすけ)はこの言葉通りに毎朝死ぬ訓練をしている。つまり、目覚めたら寝床に入ったまま、自分が死ぬイメージ・トレーニングをする。死に方は色々である。斬られたり、溺れたり、火に焼けたり、虎に食われたり。そうやっていったん「死んで」から、ようやく一日が始まる。

いわば杢之助は「死人」である。生きた死人、リビング・デッド。そしてこの「死人」であることが、この常人離れした男・杢之助のあまりにも超然とした、あまりにも痛快な、そしてどこまでもふっ切れた生きざまにつながっていく。これが本書の基本コンセプトである。

そもそも「死人」なので、杢之助はこの世の名誉や出世や世間体などにまったく関心がない。だから仕官するより自ら望んで浪人になり、他人の家に堂々と居候している。最初のエピソードはこの家の娘、お勇と杢之助が結ばれる顛末を描いたものだが、もうこの部分だけで相当ぶっとんでいる。嵐の日に熊狩りに出かけた杢之助と、彼をこっそり尾行したお勇が熊狩りの直後に、洞窟で結ばれるのである。あっけにとられるほどワイルドで、奔放で、おまけにスリリングだ。

この第一話だけで、これまでの著者の小説とはちょっと雰囲気が違う、と感じる。より一層荒唐無稽であり、リアリズムに汲々としない大らかさがあり、どこか神話的なノリがある。更に読み進めるといつも大猿と連れ立っている大男などが登場し、なんとなく「八犬伝」みたいな古き良き伝奇小説を読んでいる気分になる。もちろん、私の大好物である。

話は基本的に一話完結方式で進んでいく。舞台は佐賀藩、主役を張るレギュラー陣は浪人・杢之助、その幼馴染で藩の要職にいる「いつか主君に諫言して腹を斬る」ことを夢見ている求馬、そしていつも大猿と一緒にいる大男・萬右衛門の三人である。三人とも「死人」であり、平然と死ねる男たちである。

一話完結だがそこはテレビドラマの時代劇とは違い、一話一話が複雑かつ濃厚だ。希代のストーリーテラー隆慶一郎がその持てる技巧のすべて駆使して生み出すエピソード群だけあって、少なくとも二つ以上のプロットが常に組み合わされ、先が読めず、かつワクワクさせ、ハラハラさせ、徹底した娯楽性と深淵なテーマ性が混然一体となっている。おまけにエピソードごとに趣向が変わり、バラエティに富んでいる。

どんなエピソードかざっと紹介すると、島原の乱に杢之助がまぎれこんで戦う話、吉原で旗本の不良息子どもとトラブルになる話、佐賀藩に恨みを持つ伯庵の復讐計画と幽霊騒ぎ、殿様のお家騒動、杢之助と萬右衛門の熊狩り旅行、恐るべき術「心の一方」の使い手・松山主水と杢之助の対決、かれうた船と哀れな少女の水揚げの顛末、大阪喧嘩と船の遭難話、暴君・光茂への家臣の復讐の話、謀反潰しの話、などなどである。

とにかく、どのエピソードも痛快無比。「死人」である杢之助とその仲間たちは死を恐れず、世間のしがらみにとらわれず、目先の情にも流されず、時には冷酷非情にもなれる。普通の人間の常識がことごとく通用しない。ただ侍としての矜持、男の信義だけで躊躇なく動く。そんな彼らが次々と難題を解決し、弱きを助け、悪を成敗していく。これが面白くないわけがない。

私のフェイバリット・エピソードは、たとえば杢之助の剣客としての凄みが発揮される松山主水との対決。これは特にエンタメ・アクション的な一篇で、悪役の主水は妖しい美青年で、「心の一方」という催眠術に似た摩訶不思議な技を使う。この男とその一味が佐賀藩にやってきて好き勝手に暴れ始める。その時杢之助たちは...。時代劇アクション好きなら間違いなく萌える設定だ。

水揚げされる少女の悲劇を知った杢之助が、金にものを言わせて少女をなぶりものにする狸ジジイを仕置きするエピソードもいい。珍しく杢之助が登場しないエピソードとしては、杢之助の娘・静香が婚礼前に卑劣な男と決闘する話がある。この男は忍術遣いと結託して、インチキな決闘をしようとするのだ。これも痛快なエピソード。

これらが痛快アクション篇だとすれば、深い精神性を湛えたドラマ篇はたとえば島原の乱で、杢之助がキリシタンたちの死を恐れない強さの秘密について思いをめぐらすエピソード。あるいは、佐賀藩主一族内の厄介者にして暴君の正茂に、杢之助たちが対処する話。思いがけない展開が爽やかな感動を呼ぶ。

とにかく面白いから読めというしかないが、気になるのはやはり「未完」という点だ。未完部分は著者が遺した梗概がついていて、大体のあらすじは分かるようになっている。だから、「いいところなのにこれからどうなるのかまったく分からん」と欲求不満に陥るようなことは、多分ない。杢之助と求馬は、やはり死ぬことになっていたらしい。

が、その死に方がまた破天荒かつ壮大なのだ。驚くべきことに、あらすじだけ読んでも十分面白い。とはいえ、やはりこれがちゃんと書かれていたら、と思わずにはいられない。一体、どんな大傑作になっていたことだろう。

が、それはもう言ってもしかたがないことだ。未完でも本書は面白い。それはもう途轍もない面白さであって、こんなに面白くて刺激的で、深い形而上学性まで備えた時代伝奇小説は滅多にない。山田風太郎の最上の傑作と同等レベルだろう。要するに、至高の到達点ということだ。