光秀の定理

『光秀の定理』 垣根涼介   ☆☆☆☆

先日読んだ『信長の原理』が大変面白かったので、今度は同じ作者の『光秀の定理』を読んだ。順序が逆になってしまったが、刊行の順番としてはこちらが先である。

本書もまた十分面白く、堪能できた。タイトル通り、今回の主人公は明智道秀である。自然界の法則を物語のテーマとする趣向も同じで、本書で題材になっているのはいわゆる「モンティ・ホール問題」だ。根っこにあるのはベイズの定理という法則らしいが、違いはよく知らない。私が「モンティ・ホール問題」を知ったのはマーク・ハッドンの小説『夜中に犬に起こった奇妙な事件』でだったが、一聴するとかなり不思議な確率論の話である。昔別のところで書いたブログの記事から、「モンティ・ホール問題」の説明部分を引用する。

"あなたはテレビのクイズ番組に出て、三つの扉のうちから後ろに車がある扉を当てなければならない。はずれの二つの後ろにはヤギがいる。あなたが扉を選ぶと、司会者は残りの二つのうちの一つを開き、後ろにヤギがいるのを見せる。そして、あなたは一度だけ考えを変えてもいい、と告げる。あなたは考えを変えて、もう一つの扉を選ぶべきだろうか? これがモンティ・ホール問題である。答えは簡単に思える。考えを変えても変えなくても確率は1/2で同じ、ように思える。ところが違うのだ。"

これは数学者でさえ答えを間違えたという高度な問題で、現在では何が正解か学者の皆さんも合意が取れているようだが、不思議な法則であることに変わりはない。本書では三つの扉から四つの椀に設定が変えられているが、本質は同じだ。

ただし、『信長の原理』における「パレートの法則」がストーリーそのものを動かす原動力として、あるいは主人公・信長の生涯のテーマとしての重みを持っていたのに対し、本書におけるモンティ・ホール問題はストーリーそのものとそれほど密接な関係はなく、一種の味付けというか、飾りの域にとどまっている。その点はちょっと期待外れだった。但し、面白い着眼点だとは思う。

それから、『信長の原理』は完全に信長の人生を語り起こす伝記の体裁だったが、こちらはそうでもない。前半の主人公は、光秀よりむしろ破戒僧・愚息と剣客・新九郎である。この二人は奇妙な縁で一緒に暮らす二人の宿無し、いってみれば世捨て人だが、二人とも只者ではない。武芸にも秀で、世界を読み解く叡智を備えた愚息と、「笹の葉」流の剣の創始者にして超人的剣士の新九郎。彼らは実に魅力的なキャラクターで、この二人が主人公だったとしても本書は傑作エンタメ小説になっただろう。光秀は新九郎が辻斬りをしようとしたところへ通りかかる侍として登場し、しばらくは愚息と新九郎の周辺人物のような扱い、つまり二人の「友人」として登場する印象が強い。

やがて光秀が信長に仕えるようになり、ようやく物語は愚息と新九郎の二人組から離れて光秀メインとなる。が、信長や光秀に関わる歴史上有名な事件やエピソードはとびとびに、あるいは断片的に出てくるだけで、本書のストーリーは光秀が考えたことや二人組との交遊という、歴史とはあまり関係ない部分を中心に進んでいく。従って、本書の「歴史小説」色は『信長の原理』よりはるかに薄い。というか、あまり「歴史小説」らしくない。

なんせあの「本能寺の変」すら、この物語ではスキップされてしまうのだ。この物語の本篇は実質、信長が京入りした時点、つまり光秀の反乱はまったく気配すらない時点で終わってしまい、そこから一気に時間が飛んで「本能寺の変」後のエピローグへとつながる。そこではもう光秀は登場せず、愚息と新九郎がそれについて会話するのみだ。

ちなみに、この二人の「本能寺の変」の解釈は光秀の私怨というより、信長が皇帝化することへの危惧から引き起こされたというものだ。日本人の気質として独裁者は望まれない、それが独裁者への道を突っ走る信長を止めたとしている。

『信長の原理』と読み比べてみると、同じ信長・光秀の歴史上の軌跡ということで当然重なるエピソードもあり、松永弾正なども両方に出てくるが、やはりこちらの方が断片的である。当然、信長の影も薄く、この天才の思惑なども一切分からない。だから本書の後に、より詳細でより歴史小説的な『信長の原理』が書かれた理由は分かる。これだけ読むと、多分読者はフラストレーションを感じてしまうだろう。

さて、本書は基本的に愚息や新九郎という虚構の人物や「モンティ・ホール問題」を通して、光秀の人物像を描こうとする試みだが、著者が描く光秀像は責任感と義務感が強く、優しく聡明だが小心で、果断さに欠け、少々愚痴っぽい、というものだ。つまり戦国武将としては人が良過ぎる。優秀だし能力はあったが、仕事を悠々とこなす器に欠けている。だから信長の下で重用された時期、集まってきた仕事をギリギリでこなしてはいたが、そこに彼の生きがいはなかった。愛妻が死んだ時、「これから何を楽しみに生きていけばいいのか」と慨嘆したことがそれを示している、と著者は言う。

これには、現代の職業人でも身につまされる人が多いのではないだろうか。会社に入って懸命に仕事をし、出世し、やがてそれなりに金と地位を得て人の上に立ったとしても、そこにあるのがただ責任だけで歓びがないならば、その人は幸福とは言えないのである。そういう意味で、この明智光秀の物語はとても現代的なテーマをはらんんでおり、著者による人物像の分析は現代を照射する力を持っている。

その他、人間は結局得意なことを通してしか賢くなれない、というのも面白い考察だった。これは新九郎の悟りである。

最後に、本書のタイトルになっている「光秀の定理」すなわちモンティ・ホール問題がストーリーに直接関わってくるのは大体二か所。光秀がいくさで敵を攻める道を選ぶ時の決断、そしてエピローグにおける愚息と新九郎の会話の中で、世の中を渡っていくための人生の知恵として語られる部分だ。両方とも正確にモンティ・ホール問題の応用とは言い難く、いささか強引でこじつけ感はあるが、要するに人間は変化しなければダメ、何がなんでも初志を貫こうとする人間はかえって滅びる、という結論である。

それにしても、愚息と新九郎のキャラが素晴らしく、前半の二人の活躍は胸のすく爽快さなので、中盤以降出番が減ってしまうのが実に惜しい。垣根涼介さん、ぜひこの二人が縦横無尽に活躍する剣客小説を書いて下さい。