フロリダ・プロジェクト

『フロリダ・プロジェクト』 ショーン・ベイカー監督   ☆☆☆☆☆

Amazon Primeで鑑賞。傑作である。こんな映画がタダ同然で(会員になってさえいれば)観れるとは、贅沢な世の中になったものだなあ。

この映画の重要な特徴はそのミニマリズム的アプローチ、つまり徹底した説明の排除にあるけれども、映画を観るにあたって頭に入れておいた方が良い知識がある。それは、この映画の舞台となるパステル・カラーのモーテル群はディズニー・ワールドの周辺に位置していて、その夢見るような外観とは裏腹に、今や低所得者層向けの住居と化しているということだ。世界中から観光客がやってくる夢の国ディズニー・ワールド、しかしその周辺のカラフルなモーテルの数々、たとえばマジック・キャッスル、アラビアン・ナイト、フューチャーランドなど華麗な名前を持つモーテル群には、ギリギリの生活をする人々がひしめいている。中には犯罪を手に染める者もいる。夢の国のまわりにある、パステル・カラーのスラム街。それがこの映画の舞台だ。

映画はまず、子供たちの日常描写から始まる。世界中の他のどんな場所とも同じように、子供たちは屈託なく遊ぶ。いたずらをし、大人に叱られ、それでも懲りずに騒ぎ回る。カメラは淡々とその姿を画面に映し出す。はしゃぎながらアイスクリーム屋でアイスクリームをねだり、旅行者に小銭をねだり、ダイナーの裏口から残りもののパンケーキをもらう。若い母親は気軽な口調で「次はシロップもつけて、と頼むんだよ」と子供に言う。何気ない日常のやりとり、気軽なスナップショット風の積み重ねの中に、生活していくことの厳しさが浮かび上がる。

この映画の大部分は、このような日常のスナップショットの積み重ねである。しかも半分以上は子供視点のエピソードだ。表面的には、大した事件は起きない。この生活にいかがわしい、不穏な部分があるとすれば、それらはスクリーンの裏側に隠されている。しかし観客は徐々に、このモーテルでの生活がどんなものかを理解し始める。若い母親は友人から食べ物をもらい、観光客に盗品を売る。隣人と諍いを起こし、家賃を滞納し、管理人ともめる。

管理人はといえば、子供のいたずらに手を焼きながらモーテルのメンテナンスをし、家賃滞納者に警告を出し、子供たちに近づく変質者を追い出す。彼はこのモーテルの実態を誰よりも良く知りながら、ここで生活する人々の最低限の矜持を守ろうとする。そんなおとなたちの思いをよそに、子供たちは無邪気な遊びやいたずらに余念がない。そしてそのすべてを、この映画は「ありふれた日常」の断片として、クールに観客に呈示する。

この映画の重要なキャストのほとんどは素人らしいが、唯一の例外であるウィレム・デフォーはこのモーテルの管理人を見事に演じ切っている。キリキリと抑制されていながら観る者をヒューマニスティックな感動へと誘う、素晴らしい演技だ。

この映画を成立させている三つの大きな要素は、スラムの荒んだ生活、「夢の国」風のパステルカラーの舞台、そしてよそとまったく変わらない子供たち、である。一つ目が映画の衝撃であり本質、二つ目が映像美とアイロニー、そして三つ目がユニークな「視点」=パースペクティヴを提供する。いずれも冴えたアイデアであり、この見事な三位一体によって、この映画は強力無比なストラクチャーを作り出している。

さらにプロット上の重要なポイントは、この映画の主人公と言っていいヘイリーとムーニーの母子が、決していわゆる善人ではないという点である。倫理観が完全に鈍化しているヘイリーは誰もが「この女は自業自得」と思うだろうし、ムーニーのいたずらも悪質で、決して「いい子」ではない。悪環境で生きるけなげでかわいそうな母娘、ではないのだ。彼らは典型的なスラムの住人であり、完全にこの場所に属している。従って観客の感情移入は妨げられる。この映画のカスタマーレビューを米国のAmazonで読むと、その点の不満を述べている人が多い。この子供たちの振る舞いはひどい、とても同情することなどできない、というものだ。

が、実はこれが映画のポイントなのである。この映画の芸術作品としてのクオリティは、この一点にかかっているといっても過言ではない。もしヘイリーやムーニーが運悪くここに辿り着いた善人だったら、あるいは「いい子」だったら、観客の感情移入は楽になるだろう。そしてみんなが、「かわいそうに」と思う。彼らに同情し、もしかしたら涙を流すだろう。しかしその涙は「スラムにたまたま迷い込んだ善良な母子」に向けられたものであって、スラムの住人に向けられたものではない。スラムの住人は、同情に値しないひどい奴ら、自業自得の奴ら、のままだ。

ところがこの映画はそうではない。ヘイリーとムーニーの境遇は立派に自業自得であり、彼らも確実にスラムの一部である。もちろん子供のムーニーにこの境遇の責任はないだろうが、あんな子供が近所にいたら迷惑だとみんな思うだろう。

従って、この物語はスラムで暮らすべくして暮らす、典型的なスラムの住人の物語となる。観客はまず冷ややかに、「こいつら自業自得、同情の余地なし」と思いながら観るだろう。ところがやがて、そんな彼らにも当然ながら人間性があり、悪いばかりの人間ではないことにだんだん気づき始める。彼らの振る舞いは欠点だらけかも知れないが、それでも彼らは人間だ。苦しみがあり、喜びがある。

ヘイリーが娘と遊ぶ時の笑顔や、生活苦を娘に見せないようにする痛ましい努力は、彼女に残された人間的な側面である。彼らだって私たちと同じ人間だということを、観客はさとる。そしてそれだけに、彼らの境遇の残酷さが耐え難いものになる。なぜならばそれは「たまたま悪運のせい」などではなく、彼らの人生の本質だからである。

これが彼らの人生なのだ。どこにも逃げ道はない。「この母子ならいつか抜け出せるはず」なんてセンチメンタルな、甘い気休めはこの映画の中にはない。ひたすら厳しく、辛辣で、苛烈である。ヘイリーとムーニーが観客の同情を誘ういわゆるいい人といい子だったら、口当たりがよくなる代わりに、映画がこの厳しさを獲得することはなかっただろう。

徹底して説明が排除されていることも、この映画のカラーを決定づけている。時々、意味が分からないシーンがあるほどである。明らかにミニマリスム的だが、その一方で、記憶に残る印象的なエピソードも多い。

たとえばディズニーワールドと間違えてモーテルにやってきたハネムーカップル、子供の放火事件、変質者とソーダ自動販売機、別のモーテルのフロントで宿泊を断られるヘイリー、ダイナーの女友達との諍い、風呂で遊ぶムーニー、豪華なホテルのビュッフェ、倒れたまま成長する木、モーテルの上空に架かる巨大な虹。

そしてこの映画の衝撃を仕上げるものとして、あの大胆かつ荒唐無稽なラストシーンがやってくる。ついにヘイリーとムーニーの母子が引き離されようとする時、ムーニーと女友達は手をつないだまま駆けに駆け、現実から抜け出して、夢の国ディズニーワールドの中へと分け入っていく。それまでのミニマリスト的リアリズムから、一気に蜃気楼めいたファンタジーへと映画は変貌する。

あの不思議なラストシーンの意味は観客が好きに解釈すればいいのだが、私はあれをハッピーエンドと見なすのはちょっと無理があるように思う。彼らの現実は、それほど生易しいものではないはずだ。あのラストは蜃気楼であり、虹なのだと思う。ムーニーと女友達がモーテルの上空に見た、あの美しい虹のようなものだ。そんなはかない美しさが、この映画の中では過酷な現実と同居しているのである。