ラ・カテドラルでの対話

『ラ・カテドラルでの対話(上・下)』 バルガス・リョサ   ☆☆☆☆☆

分厚い岩波文庫上下巻で読了。リョサの代表作としてタイトルだけは昔から知っていたが、去年岩波文庫からこれが出るまで日本語版ハードカバーは入手困難で、アメリカに住んでいる私は読みたくても読めなかった。

本書はリョサのごく初期の作品で、『都会と犬ども』『緑の家』に続く三作目にあたる。旦敬介氏の解説にもあるが、冒頭のエピグラムに「社会の生のすべてを探索しつくさねば本物の小説家にはなれない、なぜなら、小説とは諸国民の私的歴史だからである」というバルザックの言葉が掲げられていて、本書がペルーという国の全体像を描こうとするリョサの壮大な試みであることが分かる仕掛けになっている。

それにしても、社会の生のすべてを探索しつくすとはとてつもない難事業だ。文学者って恐ろしいことを考えるものである。そしてまた、この言葉を自分の小説の巻頭に堂々と掲げてしまうリョサもすごい。自らハードルを上げまくっている。

さて、前述の通り私は本書のタイトルは前から知っていたが、どんなストーリーなのかはまったく知らなかった。「ラ・カテドラルでの対話」というタイトルからなんとなく、登場人物が延々と哲学的対話を繰り広げるような観念的かつ難解な小説というイメージを持っていたが、実際読んでみるとそんなことはない。ちゃんと筋立てとアクションがある。考えてみれば当然で、そもそも天性のストーリーテラーたるリョサが観念的なだけの退屈な小説を書くわけがないのだった。

メインの登場人物は、ペルーの新聞記者サンティアーゴと、かつて彼の家の使用人だった年長者のアンブロージオである。この二人が長い歳月を経て久しぶりに再会し、ラ・カテドラルという店に行って延々と思い出話をする、というのが本書の設定で、要するに、この大長編は全部この二人の思い出話なのである。

二人いるのでもちろん二つの人生の物語が交錯するわけだが、実際は二つどころか四つも五つも六つも、さまざまな物語が交錯しながら進んでいく。サンティアーゴは裕福な実業家の家庭で育ち、学生の時に政治運動にのめりこみ、卒業して記者になる。彼の物語を彩るのは恋人や友人たちとの軋轢、家庭のごたごた、新聞社での仕事などのエピソードで、やがて彼は看護婦と出会って結婚する。一方のアンブローシオの身の上話は、同じくサンティアーゴの家で働いていたアマーリアへの愛、再会、結婚、出産そして彼女の死がかなりのボリュームを占め、並行して、彼が従事する権力者の下での怪しげな仕事についても語られる。

が、それだけじゃなく、この二人以外にも数多くの魅力的な人物、たとえばサンティアーゴの父親で裕福な実業家のドン・フェルミノ、大臣になって辣腕を振るうカヨ・ベルムーデス、その美貌の妻オルテンシア、その他将軍や大臣や用心棒などがぞろぞろ登場し、かつそれぞれの人生について詳細なエピソードが積み上げられていく。ストーリーは三重にも四重にも重なり合い、こだまし、反響し合う。社会のあらゆる階層の人生が、混沌とした中で混ぜ合わされていく。

社会のすべてを探索しつくす、という本書のエピグラムは伊達ではないのだ。家族、愛、結婚、身分制度、人種、政治、権力と腐敗、貧困と闇社会、新聞社と殺人、売春婦、亡命、革命、などなど、これらのすべてが本書には盛り込まれている。まったく壮観という他はない。

この複雑性と重層性に加えて、本書の大きな特徴はリョサお得意のテクニック、「時空を超えた会話の混交」が極限まで駆使されていることである。これはリョサのほぼすべての作品で使われているテクニックで、具体的には別の時間または別の場所で異なる人々によって交わされる会話を改行だけで並列し、説明なくシャッフルすることによって、読者にあたかも複数の場面に同時に立ち会っているような「偏在」の感覚を生じせしめるという、映像化はまったく不可能な、小説ならではテクニックである。大抵の場合、リョサはまずそれぞれの登場人物とその状況に読者をなじませ、その後で徐々に会話のミックスを進めていく。そうすれば読者は会話をミックスされても混乱せず、誰と誰が喋っているのか手に取るように分かり、その自在な時空の移動に快感を覚えるようになる。

ところが、この小説では少し様子が違う。リョサはそうした丁寧な段階を踏まず、前置きもなく、いきなり会話をミックスしてくる。しかも二つどころか、三つも四つもの異なる場所で交わされる会話をミックスした上に、時系列までシャッフルしてしまう。説明なしに話が前後したりするのだ。さすがにこれでは読者は混乱する。誰が誰と話しているのか、何の話なのかすら最初はよく分からず、読み進めるうちにだんだんと分かってくる仕掛けになっている。

おそらくリョサは、無数のエピソードがこだまを響き合わせるような重層性をこの物語に与えたかったのだろうし、混沌とした社会の渦に飲み込まれていくみたいな迷宮感を読者に感じさせたかったのだろう。この手法は狙い通りの効果を上げていると思うが、ただし、読者にとっては難解でとっつきにくい手法でもある。いつものリョサほどストーリーが明快でなく、状況が分かりづらい。本書に読む読者にはある程度の忍耐力が要求される。

本書巻末の旦敬介氏の解説はかなり詳しい、力のこもったものだが、それによればリョサノーベル文学賞を受賞した際の理由「権力の諸構造の地図を作成し、個人の抵抗と反乱と敗北を鮮烈な映像で描き出したことによる」とは、本書を指しているということだ。本書がリョサの代表作とみなされているのもそれが理由だろうし、またリョサが「これまで書いたすべての作品の中から一冊だけ、火事場から救い出せるのだとしたら、私はこの作品を救い出すだろう」と緒言に書いているのも、本書が彼の辛苦の結晶であり、またそれだけ自信作であることを示している。

しかし前述の通り本書を読むにはある程度の忍耐力と集中力を要する上に、エンタメ度は『都会と犬ども』より低く、幻想性・エキゾチズムは『緑の家』より低い。中心的な題材は政治であり、物語の全体像はペルー社会の全般にわたるというかなり手ごわい小説だ。ストーリーは複雑で、混沌としている。読者を選ぶ小説であることは間違いなく、本書が日本でしばらく入手困難だったのもそれが原因だろう。

とはいえ、リョサは「反抗と暴力とメロドラマとセックス」は小説に欠かせない要素である、と堂々と主張する天性の物語作家である。その意味では、本書も一見とっつきにくいが個々のエピソードは非常にドラマティックで、ある時はノワール風、ある時はメロドラマ風、ある時はミステリ風にと、変幻自在にその色合いを変えて読者を魅了する。波乱万丈という形容がふさわしく、決して無味乾燥な、読むのがつらい小説ではない。

長大な大河ドラマの全体にわたって無数の会話や独白や呼びかけがこだまし、その基調のトーンはメランコリックで陰影に満ち、人生のはかなさと栄華盛衰の無常観が全体を支配する。やはりこれもまたリョサならではの、濃密かつ重厚な物語文学の傑作である。